「無名の物語」のために

「無名の物語」のために

魂のエネルギー

 「コトダマの里」の出発点は、「魂を時代や世代を越えてどう受け継いでいくか」という問いにありました。

 ただこの問いは、「魂(タマシイ)」というものをどのように捉えるか、ということで意味がかなり変わってきます。

 「魂」というと、一般的には、「宗教的」、もしくは「スピリチュアル」な観念がまずは頭に浮かぶと思います。ただここではもっと日常的な意味、すなわち「魂を込めて」とか「魂を見せろ」などの表現で意味されているような「心+力(エネルギー)」のような観念を指し示しています。

 比喩的に言えば、人間の「心(ココロ)」は「身体(カラダ)」と同じように生きていくうえで絶えず「エネルギー」の補充が必要です。つまり、失敗して落ち込んだり、希望を失ってやる気を無くしたりしたときに、「魂のエネルギー」を補充して、再びやる気を取り戻し、また一歩前へと踏み出します。

 こうしたことは小さくは日々の生活で生じていることではありますが、人生の大きな試練や挫折のときにはそれだけ大きなエネルギーも必要です。そしてこうしたエネルギーの最大の源泉は、人類にとっては伝統的に宗教でした。つまり信仰が心の支えとなり、神が魂を守ってくれたのです。

 しかし、宗教も人間社会における一つの文化です。したがって社会におけるその意味や役割は時代とともに変わっていきます。世界的に無宗教の人が増えている現代社会では、かつてのような絶対的な「守護神」ではなくなってきているのは事実でしょう。

 代わって現代では、精神医学や脳科学、あるいは心理学やカウンセリングなどが重要な役割を果たすようになっていています。これらは魂=脳の科学的なコントロールを図ろうとするもので、今日では魂のケア(メンテナンス)の方法として宗教以上に日常的なものになりつつあります。そして今後さらに急速に発展し、普及していくことが予想されます。とはいえ現在のところ、すべての人が常に前向きにポジティブ・シンキングで生きていけるようになるほど完全に魂=脳をコントロールできるまでには至っていません。

ヒーローの物語

 じつは人間社会は今も昔も、ある意味ではもっと日常的で身近な方法で魂のメンテナンスをはかってきたと考えられます。すなわち、人と人とのあいだの「魂の交流」を通じて互いに「エネルギー」を補充し合う、という「ソーシャル(社会的)」な方法です。つまり簡単に言えば、他人の魂からエネルギーを分け与えてもらう、ということです。

 こうした観点から言えば、現代社会では、とくに若い世代では、「ヒーロー」の存在が大きいでしょう。例えば今で言えば、野球のイチロー選手やサッカーの本田圭祐選手などでしょう。あるいはもっと一般的に言えば、有名人や著名人、すなわち何らかの意味で「偉業」を成し遂げた人物は広い意味で「ヒーロー」と言っていいと思います。

 こうした「ヒーロー」の行動や発言、そしてその考え方や生き方は多くの人に影響を与えます。そして「ヒーロー」の人生の道のりや歩みを著した「ヒーローの物語」は多くの人の人生にとって重要な指針となります。つまりそれは、多くの人の「人生の目標」や「理想の人生」になるのです。

 ここでやや抽象的に捉え直すと、「ヒーローの物語」は「偉業の物語」であると言えます。つまりそれは、人生の歩みの中で生み出された「結果」に焦点を当て、その結果を人生の意味(価値)の中心に据える物語です。

 ちなみにこうした「偉業の物語」は人間社会にとって必要不可欠な物語です。なぜなら、人間社会は数々の「偉業」の積み重ねで進歩し、発展してきたからです。したがって、「偉業の物語」は社会の中で公的に語り継がれ、史実として記録されていきます。

死後の物語

 しかし現実には、多くの人はヒーローにはなれません。したがって結果だけを見れば、多くの人の人生は語り継がれるべき意味(価値)を獲得できないまま終わることになります。

 ただより根源的には、すべての人生は最終的には必ず「死」で終わります。そして「意味(価値)」の世界に生きる人間にとって、「死」は特別の観念です。つまり、自分が死んだら、少なくとも自分にとっては、人生のすべての「結果」は意味(価値)を失います。生きているあいだにどれほど意味(価値)のあるものを手に入れたとしても、死んだらすべて無に帰します。つまり比喩的に言えば、死は人間にとって「意味(価値)のブラックホール」なのです。

 したがって、人間にとって「死」は、突き詰めて考えると「生きる意味(価値)」そのものを否定しかねない危うい観念でもあります。ただ、伝統的には宗教がこうしたニヒリズムを克服してきました。すなわち宗教は、(自分が存在する)「死後の物語」――ある意味ではまさしく「魂の物語」――を与えることで、そこから遡ってすべての人生に「生きる意味(価値)」を与えてきたのです。

 ところで、日本社会はしばしば無宗教社会のように言われることもありますが、それは宗教的文化のあり方がが他の社会と異なるだけで、宗教的な物の見方や考え方は無自覚的に日常生活に浸透していると思います。例えば、お盆には生まれ故郷に帰ってお墓参りをする人は多いでしょう。そしてお墓参りのさいには、たんに儀礼的に過ぎないにせよ、お墓に向かって手を合わせるでしょう。

 ただそのさい、多くの人はお墓(先祖や故人)に向かって自分たちの無事を報告したり、あるいは今後も自分たちを見守ってくれるように願ったりすると思います。このような「思い」は、とくに宗教的な観念など持ち合わせていない(と自分では思っている)人であっても、ごく自然に思うことではないでしょうか。

 このようなとき、必ずしもそう自覚されていないにせよ、死者と生者のあいだで「魂の交流」が実質的にはかられていると言ってよいでしょう。墓参りはそうした魂の交流をはかるための文化的に慣習化された機会の一つですが、墓参りに限らず、位牌に手を合わせたり、遺品を手に持ったり、故人の写真を眺めたり、何かの機会に、何かをきっかけとして、折にふれそうした交流が行われていると考えられます。

 そうしたとき、とくに故人が親しい家族のような自分にとってかけがえのない大切な存在であった場合には、当然のことながら哀しみの感情が心に満ちてくるでしょう。しかしその一方で、哀しみだけで心が満ちあふれてしまうわけではありません。じつはそのとき、先に述べたような「魂のエネルギー」が死者から分け与えられていると考えられるのです。

無名の物語

 ここで「魂のエネルギー」という概念について改めて精確に述べると、それはじつは「生きる意味(価値)」そのものを指しています。すなわち、そもそも人間は、他の生命とは異なり、「意味(価値)」によって生きる存在です。三島由起夫はかつて、人間は意味(価値)のない人生を生きられるほど強くはない、という趣旨のことを述べています。つまり人間が生きていくためには、生きる意味(価値)が必要なのです。したがって、生きる「意味(価値)」が見失われると、生きるための「エネルギー」も失われしまいます。

 ところで、「家族(あるいは親しい間柄)」は一般に、こうした「魂のエネルギー」、すなわち「生きる意味(価値)」を直接的かつ継続的に互いに与え合う存在です。というのも、家族は、互いに生きていることそのもの、存在そのものに意味(価値)があるからです。

 したがって家族から見て意味(価値)のある人生の物語とは、その「結果」とは無関係に、その「過程」、すなわち生きている(生きてきた)ことそのものを人生の意味(価値)の中心に据える物語です。これは結果(偉業)を人生の意味(価値)の中心に据える「ヒーローの物語」とは異なり、社会の中で公的に語り継がれ、史実として記録されるわけではありません。つまりそれは社会から見れば「無名の物語」であり、家族など親しい身内の中でのみ私的に語り継がれ、思い出として記憶されるような類いのものです。

 ただこうした「無名の物語」は、「ヒーローの物語」と同様に、あるいはむしろそれ以上に、人びとの「魂のエネルギー」の源となります。すなわち先にも述べたように、「結果」を人生の意味(価値)の中心に据える物語は「死」の観念の前では無力です。死は人生のすべての結果を無に還してしまうからです。

 それに対して「無名の物語」、すなわち生きてきた「過程」を人生の意味(価値)の中心に据える物語は、死という結末にもかかわらず人生に意味(価値)を与えます。なぜなら、それはその人がそのように生きたことそのものに意味(価値)を与えるからです。

 先に述べたように、こうした「無名の物語」は、親しい人びとの中で私的に共有され、記憶されてきました。そして死者の「無名の物語」は、心の内なる「魂の交流」を通じて生者に「魂のエネルギー」、すなわち生きる意味(価値)を与え続けます。あるいは逆に言えば、「無名の物語」は死後も生者に「魂のエネルギー」を与え続けることによって、「魂の交流」を死を越えて促し続けているのです。

自由の物語

 現在の日本社会はすでに生まれてくる人よりも死んでいく人の方が多い「少生多死」の社会に突入しています。つまりこれからは、人生の始まりの場面よりも人生の終わりの場面の方が日常的で身近な光景となります。このことは、「死」について考える機会を否が応でも増やしていくことになるでしょう。

 近年の「終活」ブームは、こうした社会情勢を背景にしていると考えられます。ただ現在の終活の実態を見てみると、「遺族に迷惑や負担をかけたくない」という、どちらかというと「後ろ向き」な理由が多いように思われます。ただその一方で、遺産や相続について周到な準備をしておくことは一見したところ「前向き」にように思えます。

 しかしながら、おカネは「生活のエネルギー」にはなりえても、「魂のエネルギー」にはなりえません。少なくとも、遺族に「生活のエネルギー」を分け与えることばかりに関心が払われ、「魂のエネルギー」を分け与えることが閑却されてしまうのは、残される家族の長い人生を考えると周到な準備とは言い難いと思います。

 考えてみれば、「死」は、「生命の終わり」の機会でもありますが、「魂の永遠」の機会でもあります。つまり、(おそらくあっというまに消えて無くなるものではなく、)長く久しく意味(価値)あるのものを残すチャンスなのです。このチャンスを前向きに、積極的に活かさない手はないでしょう。

 わたしは、それぞれの人の人生の道のりや歩みそのものが、長く久しく意味(価値)あるのものだと思います。それはたしかに、必ずしも「ヒーローの物語」、あるいは「偉業の物語」ではないかもしれません。しかし遺族にとっては、そこに偉業があるかどうかはその意味(価値)とは関係のないことなのです。

 さらに、それぞれの人の「無名の物語」は、遺族に限らず社会の多くの人に「魂のエネルギー」、すなわち生きる意味(価値)を分け与えることができるポテンシャルをもちうるはずです。すなわちそれは、結果はどうあれ、自分のやりたいこと、あるいはやるべきことをやり抜いた、という意味(価値)です。わたしは、そうのような意味(価値)をもつ人生の物語を「自由の物語」と呼びたいと思います。

 「自由の物語」は、現在の日本社会では誰であれそのように生きたいと思えば生きられる人生です。そして、自分の生きる道を自由に選べる時代だからこそ、その道を生き抜いた、あるいは切り開いた先達の物語は後に続く世代の多くの人に「魂のエネルギー」を与えうるはずのものなのです。

 わたしは、そうした意味での「無名の物語」が文字通り自由に語り継がれる文化の片隅に、「コトダマの里」があればよいと願っています。

(2014.5.1 Ryu