「マインドフルネス」と「止観」について

photo credit: PeterThoeny via photopin cc

 

 先日のAzuさんの記事について、わたしなりに考えたことを補足(蛇足)として追記してみたい。

 「マインドフルネス」は仏教の瞑想法の一つの方法論から派生して、現在では精神的・身体的な健康法の一種として普及しているようである。

 わたしは精神的・身体的な健康法の一種として研究が進んでいくことはよいことだと思う。ただそれは、もともとの仏教の教義とは別物と考えるべきだろうし、宗教とも切り離して考えるべきだと思う。

「止」と「観」

 ところで仏教の瞑想法では「止観」という考え方が根本にある。そのさいしばしば「止」(samatha、サマタ)「観」(ヴィパッサナー、vipassana)の違いが強調され、それが止行としての「サマタ瞑想」と観行としての「ヴィパッサナー瞑想」のそれぞれに対する力点の違いに結びつき、それがさらに瞑想の方法やプログラムの違いに結びついてるようである。

 ここで上記の解説などを踏まえてごく簡単に言えば、「止」とは心を一つのことにとどめおくこと、「観」とは心の一つ一つの動きに気をとめること、と解することができる。

 そのさい、「念」(sati、サティ)はしばしば「気づき」という訳が当てられて「観」との関連で強調されることもあるが、本来は「止」と「観」の両方にとって重要な心の働きである。つまり「止」は「念」によって心を一つのことにとどめおくこと、「観」は「念」によって心の一つ一つの動きに気をとめることであり、ある意味では「念」の二つの様相だと言える。

 例えば、自分の呼吸に気をとどめているとき(=「止」の様相にある「念」)、仕事のことや家事のことなどいろいろなことが心に浮かんでくる。そのさいそれらを漫然と思い浮かべているのではなく、自分が今「仕事のこと」や「家事のこと」を思っているとその一つ一つをきちんと気にとめて(=「観」の様相にある「念」)、そのうえでそれらから離れて自分の呼吸へと気を引き戻していく。

 こうした「心の動作」を訓練によって体得するのが瞑想の一つの重要な目的であろう。

 

生きていくための知恵としての「止観」

 仏教ではこの「止観」(瞑想)が「無常・無我」の観念へと導いていくことになるが、それについては諸派の教義でさまざまであろう。いずれにしても、最近注目されている「マインドフルネス」はそれとは直接関係なく、「止観」(瞑想)そのもの(あるいはその中の諸要素)が「心身の健康法」として効果的であるということだろう。

 ただしわたしはそれとは逆に、「止観」は、心身の健康法として効果的かどうかに関係なく、生きていく上で重要な心の働きだと思う。

 例えば、「これ以上生きていても仕方がない」と思うような深刻な問題に直面したとき、それを深刻な問題だと思っているその心の状態こそが問題である、ということにすみやかに気づけるようになることは生きていく上で重要であろう。

 つまりそれは、健康法というよりは、生きていくための知恵のようなもので、そしてその体得には瞑想法についての修練や科学的トレーニングもさることながら、人生上の経験もある程度必要ではないかと思われる。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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