photo credit: Bernhard Ellefsen via photopin cc

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 すでに述べたことだが、「心」や「魂」が「物理的実体」として存在する――物理法則が支配する世界に存在する――、ということはないだろう、とわたしは思う。

 「ない“だろう”」という推測的表現をしたのは、それが証明不可能だからだ。いわゆる「悪魔の証明」と呼ばれるのもので、存在しないことを証明することは極めて困難だからだ。

「開かれた公共的な知識」としての科学

 例えば、『ハリー・ポッターと賢者の石』に出てくる「賢者の石」(金属を黄金に変え、不老不死の水を作ることができる石)が“存在する”ことを証明するためには実際に誰の目にも明らかなように公開すればいいだけだが、“存在しない”ことを証明することは論理的には不可能だ。

 ただ、もしそれらが物理的実体として存在するとしたら既知の物理法則や常識を根本的に(革命的に)改訂しなければならない。(もちろんそうしたことは歴史上たびたびあったことではあるが。)

 したがって、現代社会の中でそれらが存在することを前提にした「公共的な知識」を構築することは極めて困難である。そして哲学者のカール・ポパーが強調したように、科学は「開かれた公共的な知識」を形作るものであり、すべての人たちが共生していくための知識的土台を構築するものだ。

 一部の人たちはそれで生活できるが他の人たちはそれでは生活できないような知識は「開かれた公共的な知識」とは言えない。そして「開かれた公共的な知識」であるためには、すべての人に公開されたうえでの批判や検証に耐えるものでなければならない。
 

「心」や「魂」は「石」や「電磁波」と“存在論的に同格”

 しかしこのことは、人間の知識として科学的知識しか意味(価値)がないということを意味するものではまったくない。それでは『ハリー・ポッターと賢者の石』に意味(価値)がないことになってしまう。

 それでは、芸術や宗教も含めた人間文化のほとんどが意味(価値)がないことになってしまう。

 おそらく、科学的知識“だけ”を知識的土台として社会生活を営むことには人間には不可能だろう。(「コンピューター」や「超人」だったらできるかもしれないが。)

 そして、人間社会のなかには科学的知識以外にも「開かれた公共的な知識」を形作るものがあって、その一つが「心」や「魂」という概念であろう。つまりそれは、すべての人たちが共生していくための知識的土台を構築するものだ。

 ただそれは物理的実体とは異なるので、意味的(価値的)実体、象徴的(記号的)実体など、呼び方はどうであれそれらは存在論的に区別されるべき実体である。ただいずれにしても人間社会と一蓮托生なので、存在論的ステータスは同等と言ってよいだろう。つまり、人間社会の中では「心」や「魂」は「石」や「電磁波」と“同格”で存在するのである。

 以上のことは哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの議論からわたしが教えられたことだが、ウィトゲンシュタイン本人ではないので当を得ているかどうかは分からないし、これも論理的にはもはや検証不可能である。ただウィトゲンシュタインとの対話は続いているのであって、そこにはたしかに彼の「心」や「魂」は存在し続けている。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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