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『アナ雪』が原因で離婚も!?米メディアが日本の異常なフィーバーぶりに注目!

 公開から77日間で日本での歴代興行成績が、『千と千尋の神隠し』(01)、『タイタニック』(97)に続く第3位に躍り出た『アナと雪の女王』。快進撃はまだまだ続いているが、全米では歴代19位、全世界で5位という順位を考えても、特に日本のけん引力の強さがうかがえる。そんな中、米メディアが日本での異常なまでのフィーバーぶりに注目し、興味深い記事を掲載している。

Digitalspy.comが「日本人の女性は、夫が『アナと雪の女王』が好きじゃないという理由で、離婚を言い渡す」というタイトルで取り上げている記事は、「既婚者の墓場」という日本のウェブサイト情報によるもの。

「『アナと雪の女王』を見るたびにうっとりし、1人で何度も劇場に足を運んだ29歳の女性は、夫に一緒に映画を観賞するように頼んだ。夫は最初、ミュージカル映画を見るのを拒んでいたが、彼女が納得しなかったので、最終的には折れて、妻と一緒に劇場に行った。しかし、『まあ、いいんじゃない。個人的にはどうでもいい映画だけど。そんなによかった?』と言ってしまったことで、妻がキレてしまったようだ。」

「妻は、『この映画の素晴らしさを理解できないのは、人間としてどこか欠陥がある証拠だわ。離婚しましょう』と言い放ち、6年間連れ添った夫と離婚することを宣言し、実家に戻ってしまった。」

 
 ディズニーのアニメーション映画『アナと雪の女王』は世界的に大ヒットしているが、とくに日本で大ブームを巻き起こしていることがそれに貢献しているようである。

 もともと日本は世界に冠たるアニメ大国であるし、ディズニーランドは日本の最大の娯楽施設であるので、世界的に評価の高いディズニーアニメであれば当然の反応と言えば当然と言える。その一方で、ディズニーのマーケティング戦略とか日本のサブカルチャー事情とか、様々な要因分析も今後多くなされるであろう。

 「コトダマ新聞」の読者はご存じのように、『アナと雪の女王』に関してはAzu記者が熱心に取り上げている。いちおう「シニアにおすすめの話題」という趣旨であるが、たんに自分の感動を伝えたいということもあるだろう。

 そのさい『アナと雪の女王』の「真意」をAzu記者が解読しているが、それはそれとして、わたしはそれとはまったく別の角度から捉えてみたい。

 すなわち、『アナと雪の女王』は本国アメリカや他の国々とは異なる、日本独特の文化的感性のもとで受け入れられているのではないか、という観点である。

「言霊」と「歌」

 以前にふれたが、万葉集の「言霊の幸はふ国」とは、日本の言語文化が「文字」ではなく「音声」に根差しているという事情を指し示しているのであった。

 そしてこの言霊の伝統のなかに神の言葉としての呪言(呪文)が成立し、それが日本文学の出発点になった、と主張したのは、言うまでもなく折口信夫である。(折口信夫『国文学の発生』)

 ただ、(古代社会の呪術的祭式で巫女が発する)呪言は「意味不明」である。そもそも神の真意ははかりしれないのだから、意味不明なのは仕方がない。

 それでも、古橋信孝の表現を借りれば、呪言は神の言葉を「装う」必要があった。そのさい、その装いの鍵となったのが、音声の規則的リズムである。そして、おそらくは五七音を基本とした音数律で神の言葉を装う呪言から、アートとしての「歌」(和歌)が生まれてきた。(古橋信孝『古代和歌の発生』)

 ただわたしは、呪言(ひいては和歌)の音声リズムの由来が神言を装うためという「神言偽装説(?)」だけでなく、それが共同体の情緒的紐帯(統合)のためであるとする西郷信綱の「情緒的紐帯説」が注目に値すると思う。

 すなわち西郷によれば、古代社会の呪術的祭式は共同体の統合と秩序をはかるのが何よりもまず重要な機能で、祭式の中心にいる巫女による呪言のリズムは、それへの集団成員の高揚感や陶酔感を伴う身体的同調を通じて、情緒的・心理的な一体感と紐帯をつくりだす。そして、五七調のリズムは原始の労働文化における肉体的リズムに由来するだろうという。(西郷信綱『詩の発生』)

「歌」による共同体の統合

 このことは、日本の古代社会の精神文化を考え合わせるとさらに興味深い。

 四方を海に囲まれた島国で、地震や台風など自然災害も多い日本では、厳しい自然と何とか折り合いをつけて農村共同体を維持・存続させていくことが古来最も優先的な社会的課題であった。

 そこで自然を司る諸々の霊(魂)たち――共同体の秩序を守護する先祖霊も含む――と交流(コミュニケーション)をはかって折り合いをつける必要があり、そのさい巫女はコミュニケーターだったわけである。

 ただ霊(魂)は、「見えるもの」、すなわち客観的現実・物理的対象ではなく、「見えないもの」、すなわち主観的現実・心理的対象である。したがって、「コミュニケーション」をはかると言っても、実際は、自らに外在的な対象とのあいだではなく、自らに内在的な対象とのあいだであり、つまり自らの内面的な世界の探求ということになる。

 そうした意味での「コミュニケーション」、つまり見えないものとの霊(魂)的交流のために、巫女はしばしば目をつぶって、ある独特のリズムで、ある独特の言葉で、「歌う」。そしてその歌にあわせて、集団の成員も見えないものとの霊(魂)的交流をはかる。

 こうしたある独特の「コミュニケーション」では、言葉はほとんど意味――対象を指し示す機能――を失い、歌の音声とリズムが霊(魂)的交流の要となる。そしてそれによって、集団成員間の感覚的・感情的・心情的共鳴が惹起され、情緒的・心理的な一体感と紐帯が構築される。
 

エルサは巫女

 ところで折口信夫によれば、「歌ふ(うたふ)」と「訴ふ(うったふ)」は語源が同じである。つまりそれは、古代の神判(裁判)において神の心情に訴える哀願・哀訴を意味していた。(折口信夫『国文学の発生』) さらに徳江元正は、「歌う」は、言霊によって相手の魂に揺さぶりを与えるという意味の「打つ」に由来するとしている。(徳江元正他『歌謡』) (ちなみに余談だが、大いに驚くことを意味する「ぶったまげる」は漢字を当てると「打っ魂消る」である。)

 巫女の「歌」は、神の「霊」に自らの願いを「訴え」ようとするほどその感情表現は激しいものとなり、そしてそこに参加する成員の「魂」を「打つ」ものとなったであろう。とするならば、それは単純なリズムの繰り返しだけでなく、かなりドラマテックな構成を伴うものだったことが予想される。

 このように「歌」によって、集団の場に情緒的・心理的な一体感と紐帯をつくりだし、共同体の秩序と統合をはかるのが古代日本社会における巫女の役割であったとすれば、アレンデール王国の女王エルサもまさしく「巫女」であると言えるだろう。ただその「歌」は、アレンデールの人びとよりもむしろ「言霊の幸はふ国」の人びとの魂によりいっそう響くところがあったのではないだろうか。

 松たか子が歌ったからだと言われればそれまでだが。

 参考文献

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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