photo credit: h.koppdelaney via photopin cc

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 前回に引き続き、下記の記事の補足である。

「魂」に含まれる「覚悟」

 上の記事で、ある人の人生の物語を伝え残す、あるいは「魂」を受け継ぐ、というとき、「公的」にすることと「私的」にすることを区別した。

 「公的」にそうするのは、その人が「成し遂げたこと」が重要だからである。それに対して、「私的」にそうするのは、その人が「存在したこと」が重要だからである。このことがそれぞれ、「結果」の物語と「過程」の物語、あるいは「ヒーローの物語」と「無名の物語」という区別につながる。

 ところで、この「公的/私的」という区別と似ているが異なるのは、ある特定の集団の「外側/内側」という区別である。

 ある集団の内部(内輪)では伝え残すに値するが、外部ではそうではない、ということは普通によくある。というのも、何が伝え残すに値する結果(「偉業」)であるかは社会的文脈(集団文化や時代背景)に依存するからである。またときには、集団の内部と外部で評価が正反対になることもしばしばある。

 例えば、あるカルト集団が未曾有の反社会的犯罪を行ったとき、集団の組織防衛のために殉じた指導者はその集団の内部では「ヒーロー」かもしれないが、外部では正反対の「極悪人」のレッテルを貼られるだろう。こうした場合、その集団の人間がその指導者を「ヒーロー」と“思うこと”を外部の側から直接阻止することはできない。「信仰の自由」の問題とも関連しているが、個人の内面を拘束することはできない。

 とはいえ、人間は社会的存在であり、社会の中で共同生活を営む限りは、その社会のルールやモラルを遵守する必要があるのは当然である。したがってこの問題は、ひとまずは社会における「教育」の問題となってくる。

 ただその一方で、そうしたルールやモラルは社会的文脈(集団文化や時代背景)に依存するという「常識」の理解も同じように重要である。現代社会のルールは原始社会のそれとはまるで異なる。自分たちのモラルは彼らのそれとは違うかもしれない。

 つまり、ある「時空間的にローカル」なルールやモラルよりも上位の(おそらく普遍的な)「常識」を理解したとき、誰かを「ヒーロー」とみなしたり、何かを「偉業」とみなしたりすることがそうしたローカルな文脈を越えたところで「どのような意味(影響や帰結)をもつか」ということについて反省的な視点をもつことができる。つまり簡単に言えば、自分はいいかもしれないが他人はどう思うか、という視点である。これは「常識」の問題であるだけでなく部分的には「共感」や「配慮」の問題でもある。

 しかしながら、こうした視点は逆の含意もある。すなわち、こうした「常識」を十分に理解したうえで、また他人がどう思うかを十分に斟酌したうえで、それでもなお、誰かを「ヒーロー」とみなしたり、何かを「偉業」とみなすことはありうる。こうした信念は、時空間的にローカルなルールやモラルのレベルを超えている。となると、そのことの意味(影響や帰結)の責任を「時空間的にローカル」なルールやモラルに負わせることはもはやできず、自分自身が引き受けるしかない。

 結局、最終的には一人一人の良心と熟慮の問題である。あるいは、決意や覚悟の問題と言ってもよい。「魂」という言葉が使われるとき、そのような決意や覚悟が含意されていることもある、ということは覚えておくべきことであろう。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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