言霊とは何か(7)~“挽歌詩人”柿本人麻呂:魂を扱う術

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日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天の河原(あまのかはら)に
八百万(やほよろづ) 千万(ちよろず)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して
神分(かむはか)り 分りし時に 天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の命(みこと)
天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を
天地の 寄り合ひの極 知らしめす 神の命と
天雲の 八重かき別(わ)けて 神下(かむくだ)し 座(いま)せまつりし
高照(たかて)らす 日の皇子(みこ)は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に
神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
吾が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知らしめしせば
春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて
天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問(みことと)はさず
日月 数多(まね)くなりぬる そこ故(ゆえ)に 皇子の宮人(みやひと) 行方知らずも

反歌二首
ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の 夜渡る月の 隠らく惜しも

柿本人麻呂の「公式挽歌」

 柿本人麻呂が草壁皇子(日並皇子)の殯宮のときに詠んだ挽歌は、宮廷歌人としての人麻呂が公の儀礼のために詠んだ挽歌であり、万葉集の中でも格調の高い荘厳な歌としてつとに有名である。

 草壁皇子は、前回紹介した安騎野遊猟歌(の中の48番歌)で安騎野に訪れた軽皇子の父親である。ちなみに「日並皇子」(ひなみしのみこ)とは「日(天皇)と並ぶ」という意味で、人麻呂に歌に詠まれたことで定着したと言われている。

 若干背景を補足すると、草壁皇子は天武天皇と持統天皇(皇后)の間に生まれ、皇太子として天武天皇の後継を嘱望されたものの、皇位に就くことなく息子の軽皇子(後の文武天皇)を残して28歳で薨去した。

 草壁皇子を皇位につけるためにあらん限りの手立てを尽くした持統天皇の悲しみの程がいかばかりのものであったか、贅言は要らないだろう。持統天皇のお抱え歌人と言っていい人麻呂は、どんな歌を詠めばいいのだろうか。

 まずは宮廷の公式儀礼の歌として、草壁皇子の御霊の“公の扱い”を示すものでなければならない。ゆえに長歌ではまず、草壁皇子の御霊を「日女の命」(アマテラス)、「神の命」(ホノニニギ)、「日の皇子」(天武天皇)と連なる先祖神の中に「皇子の命」(草壁皇子)として列座させ、天から地上に光を注ぎ子孫を未来永劫ご守護賜ることを祈り願う。

 ただ( )の対応づけはあくまで一つの解釈であり、昔から諸説いろいろあるところである。「日の皇子」がホノニニギ、天武天皇、草壁皇子をオーバーラップさせて指していると解することもできる。いずれにしてもそれは神話の世界であり、草壁皇子の御霊は他の先祖神と等しく、同様に神格化(没人格化)されたのである。
 

「魂を扱う術」としての芸術

 しかしこの人麻呂の挽歌のポイントは、他の歌人がマネできない格調高い長歌にではなく、一見素朴に心情を歌った短歌と組み合わせて一つの「芸術作品」として仕上げているところにあると思う。

 よく言われるように、人麻呂によって万葉集の反歌は長歌の主題反復に過ぎないものから、長歌を受けて新たに意趣を展開するものに変わっていった。図式的に言えば、叙事詩的な長歌と叙情詩的な短歌を「結晶化」させることで、和歌を芸術として練り上げていったのである。「人麻呂は反歌をもって長歌謡において文芸性を意図し、抒情詩への跳躍を図ったのである。」(*1)

 さらにこの歌は、挽歌の本質を捉えていると思う。長歌では、草壁皇子は先祖の神々と一体となり、没人格的な御霊として奉られた。宮廷の「公」の歌としてはそれでよい。

 しかしそれでは持統天皇の魂は救われない。持統天皇は神を創ったのではなく息子を失ったのである。かけがえのない一人の息子を失ったのだ。その悲しみを分かってやらねばならない。その悲しみを歌ってやらなければならない。長歌に添えられた短歌は、そのために作ったのだ。つまりそれは、持統天皇の「私」―そしてそれを分かち合おうとする人麻呂の「私」―のための歌なのだ。

 人麻呂は、(「呪術」ではなく)「芸術」によって魂を扱う術(すべ)を見出したおそらく日本で最初期の人物だと思う。つまりそれは、公と私、没人格性と人格性、普遍性と個性、客観性と主観性、叙事と叙情、それら諸々の論理的な二項対立を一つの「芸術作品」のなかで和解させ、克服する術である。そしてそれはそのまま、一つの「魂」を扱う術でもある。


  1. 朴一昊「万葉集反歌小考 : 長歌との対応様相をめぐって」(『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会) 11,1995)
 

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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