葬儀の現代的意味について~“生者の魂”に対する気遣いとしての葬儀

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無宗教で弔うこと(大野左紀子)

……(前略)……

 私と夫は、遺骨の一部を「不老会」の共同墓地に入れてもらうようにしたらどうかと母に言っている。そうすれば、命日には家族でお参りできるから。私も曖昧な無宗教者の一人だが、父の遺骨に向かって手を合わせたいような気がする。というか、そういう気持ちになった時に何もないのは、少し寂しいような気がする。

 墓に向かって話しかけても、聞いてくれる人はいない。身体を持たない魂だけが、そこにフワフワ浮いているということなどない。けれども逆に、そこにいない、かたちのないものに向かって語りかけるという、普通なら到底できないような行為をするために、先人の作り出した葬儀の形式というものがあるのかもしれない。

 眼を閉じて手を合わせ祈るという所作をした時だけ、そこに亡き人の魂が現れる。そう思ってみることが、残された者の心を少しは救うのかもしれない。


 前回の記事で天武天皇の葬儀(殯宮儀礼)についてふれた。

 天武天皇の殯宮儀礼は2年以上に及ぶ壮大なものだったが、次の持統天皇以降は仏教の影響のもと火葬が取り入れられ簡素化に向かっていく。

 だから、近年の葬儀の簡素化の趨勢はじつは1300年以上から始まった、としたり顔で言いたいわけではない。ただ、葬儀の意味について改めて考えさせられたので、書き留めておくことにした次第である。

「魂」に対する儀礼

 葬儀(供養)は、基本的には文字通り「儀礼」である。ただし、何らかの宗教にコミットしている人は、葬儀は「儀礼」というよりは「信仰」の問題だと言うかもしれない。たしかにどの宗教にとっても「死」や「魂」の観念は信仰の核心的部分に位置している。したがって、葬儀のあり方は最も重要な関心事の一つである。

 ただこのとき問題は、故人と遺族の宗教が異なる場合である。この場合、故人は死んでしまっているので、もはやどうしようもない。したがって結局は遺族がどうするかにかかっている(遺族に制度的および実質的に決定権がある場合)。ゆえに、遺族が故人の意思や希望を無視して自らの信仰に則って葬儀を行う(あるいは行わない)ことは可能である。

 こうしたことを踏まえて、葬儀はしょせん生者のためのものである、と言い方がされることもある。それは実態としてはたしかにそうなのだが、故人の意思や希望を完全に無視した葬儀はもはや「弔い」ではない、とわたしは思う。つまり故人の「魂」はそこにはもはやない。(正確に言えば、「魂に対する態度」はもはやない。)

 ただ、葬儀は生者のためのもの、ということをもっと現代的にスマートに表現する場合もある。すなわち、葬儀は「グリーフケア」の一環として必要な営みである、ということが最近言われるようになってきた。

 「グリーフケア」とは、家族や親しい友人などを亡くして大きな悲嘆(grief、グリーフ)に襲われている人に対してその悲しみを和らげ、そして乗り越えて行くためにケア(サポート)することを意味する。近年では大学に専門的な知識・技能を習得するコースまで開設されるほど認知が広まってきている。

 現代社会の潮流を鑑みると、葬儀業界の業務のウェイトはこの方向にシフトしていくことが十分考える。つまり臨床心理士やカウンセラーのような形での専門職化である。

 ただそうなると、こんどはグリーフケアという観点からどのようなセレモニーが必要か、あるいはそもそもセレモニーは必要なのか、ということが問題となる。こうなるともはや信仰とか儀礼とか云々の問題ではなく心理学や精神医学の問題になる。ただ、故人の「魂」の問題(あるいは死生観)を脇に置いたままのグリーフケアというのがありうるのか、わたしは疑問に思う。
 

死者と生者の双方の「魂」に対する気遣い

 葬儀が「儀礼」であると言うとき、第一義的には故人(死者)の「魂」に対する「儀礼」である。ただ、宗教もしくは社会的慣習が近代の個人主義的価値観を抑えて人間関係(家族・親族・共同体)に拘束力をもつ時代・地域では、故人だけでなくもっと広い範囲の存在(神々や先祖を含む)の「魂」に対する「儀礼」でもあった。しかし現在ではこうした拘束力が弱まり、故人の「魂」が焦点化されるようになってきた。これがこれまで累々述べてきた「死の個人化」ということである。

 近年普及しつつある「エンディングノート」は、葬儀や墓(弔い)に関して故人の意思や希望を尊重しようとする個人主義的価値観を背景にしているとひとまず思われ、ゆえにそれに則ったスタイルで弔いを行うことは故人の「魂」に対する「儀礼」であることはたしかだろう。

 また、葬儀の簡素化や多様化が進んできている中で、葬儀や墓に関して自分の意思や希望を明確に示しておくことは、遺族の余計な戸惑いや負担をなくすためにも今後ますます必要になってくることだろう。

 さらに突っ込んで考えと、遺族が必要以上に悲しみに暮れることなくできるだけ早くいつも通りの生活に前向きに立ち戻ってもらいたい、という気遣いもあるだろう。そうした意味では、遺書やエンディングノートを活用した遺族に対する「生前グリーフケア」と言えなくもない。

 そうすると今後は、葬儀を遺族(生者)の「魂」に対する「儀礼」として捉える観点も重要になってくるだろう。つまりそれは、遺族(生者)のためにどのような「弔い」を用意してあげるか、という気遣いである。

 となると、葬儀や墓を簡素化するにしても、まったく何も用意してあげないのは遺族の「魂」に対する気遣いを欠いているのではないか、という論点はありうる。(ちなみに、財産や不動産を遺産として残すのは遺族の「生活」に対する気遣いではあっても「魂」に対する気遣いとはやや別次元の事柄であると思う。)

 紹介記事で著者の大野さんは、「眼を閉じて手を合わせ祈るという所作をした時だけ、そこに亡き人の魂が現れる。そう思ってみることが、残された者の心を少しは救うのかもしれない。」と述べているが、「弔い」はもともと故人に対する生者からの一方的な行為ではなくて、故人と生者の魂どうしの相互行為、コミュニケーションの営みである。したがって、少なくともそうしたコミュニケーションの通路を開けておく気遣いはあっていいだろう。

 ただしもちろん、それは義務ではない。それは結局――こう言ってしまえばメロドラマのようなオチになってしまうが――愛情の問題であろう。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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