photo credit: TruShu via photopin cc

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 前回「言霊とは何か(3)~祭式に寓る言霊」において、西郷信綱『増補 詩の発生―文学における原始・古代の意味』の解読を通じて、日本の祭式における「言霊」(コトダマ)と「和歌」の伝統のつながりが次のテーマとして浮かび上がったが、そのテーマに直接向かう前に、そこに行くための補助線を一つ引いておきたい。

ライトノベルにおける「魔術的世界構築」

 ところで以前、Take氏が「ランキングに見る電子書籍ストアの「傾向と対策」~BOOKWALKER編」で「ライトノベルと中二病」(*)について話題にしていた。

  • Take氏は「厨二病」と表記しているが、これはネットスラングで、正式名称(?)は「中二病」らしい。

 「中二病」とは十代前半の思春期の青少年がはまりやすい「魔術的世界構築」を揶揄した言葉だが、現在電子書籍市場の主要コンテンツとなっているライトノベルの売れ筋作品はこの「中二病」の若者の需要に応えるものとなっている。

 そしてこのライトノベルは、おおむね以下のような「神話の法則」で成り立っているようである。

  • 主人公(多くは十代の男子)はリアル世界では平凡でさえない日常生活(学校生活)を送っている。
  • ある日突然、主人公を「冒険」へと誘うイベントが生じ、それを機にファンタジー世界へと入り込む。
  • そのさい主人公はこの「冒険」への抵抗を示すが、それを宥め諭す「賢者」が登場する。
  • そのさい「ヒロイン」が登場し、「ヒロイン」は「ツンデレ」(主人公に対し内心では好意的であっても表面的には敵対的)である。
  • また「冒険」の入口では主人公がその冒険で解くべき課題が「謎」として暗示される。
  • ファンタジー世界で主人公は多くの「仲間」や「敵」と出会い、またそれらの多くは自然界の「魔物」や「もののけ」であり、そして次々と「パズル」や「バトル」に遭遇し、様々な「呪文」や「魔法」を駆使してそれを克服し、かくして山あり谷あり、笑いあり涙ありのストーリーが万華鏡のように展開される。
  • そうしたストーリーを通じて、主人公は平凡で非力な若者からパワフルでリーダーシップのある「勇者」へと変貌していく。
  • ストーリーの最後に「ラスボス」との「ラストバトル」があり、そこで主人公は最大の危機に陥るが、急転直下の大逆転で死闘を制して勝利者となる。
  • そしてそこで冒険の入口で暗示された「謎」が解き明かされ、課題が克服される。
  • そして主人公はファンタジー世界からリアル世界へ帰還し、平凡な日常生活が再び始まる。
  • そして主人公とヒロインはいつのまにか「ツンデレ」から「ラブラブ」の関係になっている。

 容易に推察できるように、こうした神話的ストーリーで提示される「課題」(「謎」)とは、つまるところ十代の若者を取り巻く「人間関係」である。

 十代の若者にとって、家庭生活や学校生活という狭いリアル世界において生じるいじめや嫌がらせ、仲間外れや失恋などの人間関係の対立や軋轢は「世界の崩壊」につながる死活的問題である。

 そこで、ファンタジー世界の中で「対立の克服と和解」をシミュレーションし、そこでの疑似体験を通じてある種のカタルシスを得ると同時に、自らの心の中の記憶としてリアル世界における諸々の困難を乗り越えていくときの手がかりにする。

 とくに思春期の男子にとっては性的・身体的な人間関係は最大級の「難問」である。

 この難問は「個体」のレベルで捉えれば自己の内なるリビドー(性的・暴力的衝動)(=「魔物」「もののけ」)との対立と軋轢をいかにして「自我」により克服し、それと和解するかという問題であるが、「共同体(グループ)」のレベルで捉えればメンバーの内なる自然(性と暴力)との対立と軋轢をいかにして「コミュニケーション(協力)」によって克服し、それと和解するかという問題である。

 そしてこの「対立の克服と和解」のための秘密の鍵として現れるのが、「呪文」と「魔法」である。
 

「祭」における「魔術的世界構築」

 ここまでくるともはや説明を要しないと思うが、こうした中二病の「魔術的世界構築」は原始社会の「魔術的構築」の方法論とそっくりである。

 ただ、原始社会における魔術的世界構築の装置はライトノベルではなく「祭」(まつり)である。すなわち、原始社会の「祭」は現代社会の「ライトノベル」と――ストリー構成や素材は違っていても――機能的には同じことをやっているのである。

 つまり、原始社会の「祭」においても、人間と自然を包摂した「霊的共同体」における「対立の克服と和解」が中心的もしくは潜在的なテーマである。ゆえにそれは、人間に対して圧倒的に強大な(内なる・外なる)自然の神々や精霊たちとどのように「コミュニケーション」をはかり、対立と軋轢を克服するかをシミュレーションするものでなければならない。

 ところで、原始社会の「祭」では、「歌と踊り」が「対立の克服と和解」の演出のために重要な役割を担っている。

 そしてここで見落とされてならないのは、この「歌と踊り」の決定的に重要な要素としての(パターン化された視聴覚的な)「リズム」である。つまりこの「リズム」が歌と踊りを通じて「対立の克服と和解」、すなわち人間と自然を包摂した「霊的共同体」の一体性と調和、つまり“つながり”と“まとまり”のイリュージョンを作り出すための“舞台裏の仕掛け”になっている。

 現代の祭式でもそうだが、文化や宗教を問わず、だいたいクライマックスには祝詞の唱和がある。この「唱和」は最終的な「対立の克服と和解」の象徴的儀礼行為であるが、なぜ「唱和」できるかというと、その背後に「リズム」があるからである。つまり「リズム」によって声と動作と感情の波長を合わせるのである。

 そしてこの「リズム」という“舞台裏の仕掛け”が表舞台では祝詞の“霊力”として顕現する。そしてこの祝詞の“霊力”とは、言うまでもなく「言霊」(コトダマ)のことである。
 

“つながり”と“まとまり”の「感情的イデア」

 現代社会においても、地域の街祭り、ロックコンサートのフェスティバル、遊園地のアトラクション、これら日常生活の様々なイベントにおいて、全員参加の歌と踊りでリズムによって声と動作の波長を合わせ、心と体の“同期”をはかり、“つながり”と“まとまり”のイリュージョンを作り出す。

 たしかに、ここでの“つながり”と“まとまり”はファンタジーの中でのつかの間のイリュージョンにすぎない。「すぎない」のだが、その疑似体験は心の中の記憶として残る。そしてそれらは“つながり”と“まとまり”のいわば「イデア」(モデル)として結晶化していく。

 ただこの「イデア」はプラトンやカントのような「認知的」なものではなく、「感情的」なものである。つまりそこには、“つながり”や“まとまり”における高揚感、陶酔感、幸福感の感情モデルも含まれているのだ。だからこそ、それは無意識的・無自覚的に心の支えになったり、希望になったりするのである。

 このような意味において、「リズム」は、人間社会にとって“つながり”や“まとまり”のイリュージョンを作り出すおそらく普遍的な仕掛けなのである。

 

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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