「合格を待ちて逝きたる孫思い 泥にまみれし写真を洗う」。「ドキュメント 震災三十一文字」(NHK出版)にある宮城県石巻市の阿部敬子さんの歌である。阿部さんはあの3月11日午前、孫の花音(かのん)さんの中学校の卒業式に参列したという。

 津波で行方不明になった花音さんの志望高校合格を知ったのは4日後、遺体安置所となった学校の掲示でだった。花音さんの遺体は2週間後に見つかる。何十年かぶりに詠んだ歌に託すしかなかった阿部さんの思いである……

 奪われた時を共に刻み直し、人々を結びつける「希望」こそが求められる震災4年目である。きっと災害列島に暮らす運命を共にするすべての人に問われているはずのその「希望」のありかだ。

 

 

 「合格を待ちて逝きたる孫思い 泥にまみれし写真を洗う」

 

『ドキュメント 震災三十一文字(みそひともじ)―鎮魂と希望』NHK「震災を詠む」取材班(Amazon.co.jp)

『ドキュメント 震災三十一文字(みそひともじ)―鎮魂と希望』NHK「震災を詠む」取材班(Amazon.co.jp)

 

[2014.3.12 追記]

 この記事はもともと上記の短歌をサイトに残しておくためだけに作成したのだが、よく考えてみるとなぜそうしようと思ったのか後で気になったので改めて「反省」してみた。

 もちろん震災の日に毎日新聞の「余録」を読んで感銘を受けたからそうしたのだが、そもそもなぜ「感銘」を受けたのか、ということである。

 

 昨日2014年3月11日は東日本大震災から丸3年となる日で、当然のことながらマスコミでは震災関連の記事や番組であふれた。それらは、震災追悼式の模様、被災地の現状、原発事故の問題、風評被害の実態、避難生活の様子、復興の進展状況などなど。震災当時の悲劇的な状況を改めて思い起こし記憶を新たにしておこうというものや、遅々として進まない被災地復興のために今何をすべきかなど様々な角度から「震災」を伝えていた。

 これらの記事や番組は、大ざっぱにいえば、「事実」を伝えようとするものと「心情」を伝えようとするものに分かれる。ただもちろんこれらはくっきり分かれるものではなく、ふつうは分かちがたく混じり合っている。それに「事実」と言っても、人間的事象に客観的事実はない、とわたしは考えているので、多かれ少なかれ伝える側のフィルター(解釈)を経由した「事実」である。とはいえ、できるだけ「客観的に」「正確に」伝えるという姿勢や心構えは必要だが。

 他方、「心情」を伝えるのはいろいろな工夫が必要だ。もちろん、犠牲者の遺族の「悲しみ」を伝えるために、あるいは長引く避難生活の「苦しみ」を伝えるために、現地の当事者にインタビューして「悲しい」とか「苦しい」とかという言葉を拾い上げてそのまま報道するのも一つの方法である。

 ただ――不思議と言えば不思議なことだが――たんに「事実」として伝えられても「悲しみ」や「苦しみ」はさほど伝わらない。あるいは別の言い方をすれば、「悲しい」とか「苦しい」とかという「事実」は伝わるかもしれないが「心情」はあまり伝わらない。

 そこで、あくまでも「報道」や「ドキュメンタリー」の枠内でそうした「心情」を伝えようとすると、しばしば「脚色」や「演出」が施されることになる。そして多くの「震災ドキュメンタリー」はこの「心情」を伝えようとするあまり過剰な「脚色」や「演出」がなされ、しかも「ドキュメンタリー」の建前上「脚色」や「演出」をあまりあからさまにするわけにいかないので、ややもすると「偽装」に近いものになってしまう。ただ近年「偽装」がいろいろな形でたびたび問題にされていることもあって、受け取る側もそうした「偽装」には敏感になっている。

 

 むしろ「脚色」や「演出」を前面に出して「心情」を伝える方法もある。つまり、映画、音楽、絵画、小説、詩などの「芸術作品」として伝える方法である。

 そしてこうした「芸術作品」に「心情」を伝える力(能力)があるのは、おそらく「美」(人間の美的感性)というものと関係がある。つまりこれらの芸術作品は「心情」をたんに「事実」として伝えるのではなく、それを「美しい」ものとして伝えるところにポイントがある。

 つまり、芸術作品は人間の「心情」を「美しい」ものとして伝える力がある――それがどれほど低俗で醜悪な「事実」であっても。それゆえ人の心を感動させたり、感銘させたりすることができる。

 例えば紹介した阿部敬子さんの短歌は、震災で犠牲になった孫の花音さんへの想いが込められた短歌である。それがどういう想いか、どれほどの想いかは大人であれば――人生経験や人生観によって多少の差はあるかもしれないが――短歌という形でなくてもたんに「事実」として伝えられれば十分に分かる。

 でもそれをあえて「短歌」にするのは、「短歌」という形式が多くの人に「心情」を深く、強く伝える力があることを理解しているからだと思う。そしてその「力」に自分の想いを託したのだと思う。

 そして短歌のもつこうした「力」は、言うまでもなく、日本の長い言葉の文化の中で培われ、いわば「無形文化財」として構築されてきたものである。

 「言霊」という概念は、このような「力」を意味するものとして使うのがふさわしいと思う。

 

 ちなみに「弔歌」「弔句」というものも、亡くなった人の魂を「美しく」送ってやりたいという想いがあるだろう。言葉の「死に化粧」と言ってもいいかもしれない。

 それだけに、「泥にまみれし写真を洗う」という言葉ほど震災の「心情」を伝える言葉をわたしは知らない。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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