立花隆『自分史の書き方』(講談社)(Amazon.co.jp)

立花隆『自分史の書き方』
(講談社)(Amazon.co.jp)

 本書は、立花隆氏の大学のシニア世代向け講義コースの講義録をベースにした、自分史についての実践的な解説書である。

 昨年末に刊行されてすぐ購入し、すぐ紹介しようと思ったが、年末年始の忙しさにかまけてうっかり忘れてしまっていた(苦笑)

 ただ考えてみれば「紹介」というのはおこがましい話で、わたしが「紹介」するまでもなく本格的に自分史を書いてみようと思い立った人はまず手にするはずの本であり、またなぜそうなのかは実際に本を読んでみればすぐ分かるはずの本である。

自分史の「ポイント」を理解するための最良のガイダンス

 この本はたんなる自分史の書き方マニュアルでもなく、かといって自分史を書くことの意義や価値についての評論でもなく、簡単に言えば自分史の「ポイント」を理解するためのガイダンスとして優れている。

 例えば「第1章 自分史とはなにか」のしょっぱなに次のような文章が出てくる。

 人に読ませる文章をこれまでまったく書いたことがない人がしばしばおちいる誤りは、文章をどこで区切ったらいいのかわからないので、とにかくいつまでもダラダラしまりがない文章を書いてしまうという失敗である。

 その解決は意外と簡単で、とにかくいま書いている文章の途中でもいいから「。」を付けて、強引にその文章を終わりにしてしまうことである。

 
 たしかにこれは自分史を書く上での重要な「ポイント」だろう。そして350頁を超えるような本の「第1章 自分史とはなにか」というようなセクションの冒頭にこのようなことを書く(書ける)人は他にはいないだろう。

 さて、この本における立花氏の「主張」をざっと書き出してみる。

 シニア世代にとって、自分史を書くということはぜひとも必要なことだし、手順さえまちがえなければ、誰にでも書ける。(9頁)

 わたしは人間誰でもシニア世代になったら、一度は自分史を書くことに挑戦すべきだと思っている。自分史を書かないと、自分という人間がよくわからないはずだからである。(10頁)

 別の言い方をするなら、「自分の人生がなんだったかを知りたければ、『まず自分史を書きなさい』」ということである。(11頁)

 人生をふり返るというのは、結局のところ、「考えてもせんなきこと」を考えることであり、「言うとせんなきこと」を心の中でつぶやいてみるという行為である。(12頁)

 自分史を書くのは、第一義的には自分のため、自分の存在確認のためだが、その次には、家族あるいは子孫のためである。家族(子孫)に真の自分がどんな人物であったかを知ってもらうためである。(28-29頁)

 心の中のわだかまりのようなものを、みんな大なり小なり、もっているはずである。それについて書くことで、そのわだかまっていたものがほぐれてくる。自分史を書くことには、そのような癒やしの効果のようなものがある。(47頁)

 いい自分史年表ができたら、自分史はもう半分できたといってもいい。(76頁)

 
 以上のことはもっともなことでとくに付け加えることはない。自分史の具体的な書き方については、実際に受講者が作成した自分史とそれについての立花氏の解説がたくさんあるので参考になる。

 ただ、「家族あるいは子孫のため」自分史を書く、という点について補足的に考えてみたい。

 

なぜ「失われたら困るかけがえのない記憶」なのか

 立花氏は、受講生の一人の継さん(69歳)の「母親が認知症になりもっと早くに昔のことを聞いておけばよかったと後悔したので、自分の子どもたちが同じように後悔しないように自分史を書こうと思い立った」という話を引き合いに出して、次のように述べている。

 人はみな死ぬ。一人の人の死とともに、多くのものが失われる。その人の脳の中にあった記憶が失われる。その人の記憶が失われるとともに、その人の記憶がつないでいた記憶のネットワークの当該部分が抜け落ちる。世界は、モノの集合体として存在するとともに、同時代を構成するたくさんの人間たちが共有する壮大な記憶のネットワークとして存在している。

 ……一人一人の記憶がになっている、壮大な世界記憶ネットワークの局所部分は、全人類的見地から見れば取るに足りないほど小さなものだろう。しかし先の継さんの「はしがき」に書かれていたように、それは、特定の何人かの周辺的存在者(友人知人縁故者)にとっては、失われては困るかけがえのない記憶なのだ。(32頁)

 
 ただこの「記憶」というのは、たんなる「記録」ではない。「魂(タマシイ)の記憶(記録)」である。「生きざまの記憶(記録)」と言ってもよい。

 たしかに社会的に重大な出来事・事柄の当事者の「記憶」は、「歴史的証拠・証言」として価値があるかもしれない(例えば「坂本龍馬が夕顔丸の船上で考えていたこと」とか)。またそれほど重大な出来事・事柄でななくても、ある特定領域では「資料」としてがあるかもしれない(例えば「現役を退いた技術者のマニュアル化されていないノウハウ」とか)。

 とはいえ、これらは「自分史」というよりは他のより適切な形で残されるべきものであるし、家族や親しい友人にとっては特段に価値あるものでもない。

 家族や親しい友人にとっては当人が「どのような状況のなかで、どのように生きたか(あるいは、生きようとしたか)」という「魂の記憶」としか言いようのないもののほうがはるかに重要な「記憶」である。だからこそ、「失なわれては困るかけがえのない記憶」なのである。

 そしてそれは赤の他人からみればまったく「記憶」に値しないようなこともしばしばある。すなわち、何気ない日常の一コマだったり、ごくありきたりの言葉だったり。

 しかし不思議にも、むしろだからこそ当人とその家族や親しい友人にとっては思い返すたびに胸が締めつけられるような「かけがえのない記憶」になったりする。そこが人間らしい「魂」の記憶たるゆえんなのである。

 その意味で、「世界は、モノの集合体として存在するとともに、同時代を構成するたくさんの人間たちが共有する壮大な記憶のネットワークとして存在している」のはたしかにそうだが、それは「魂のネットワーク」でもあり、「魂」は「モノ」のようには実在していないので、よりいっそう独特のスタイルで注意深く残されるべきものだと思う。

 そうしてみると、この本自体が立花氏の「魂の記憶」の側面も多少はあると思われるのだが、そういう意味では「記憶」に残る一節があったので最後に引いておく。わたしにとってこの本で心にずっと残る部分があるとしたら、おそらくこの部分だろう。

 わたしは社会的にはいわゆる勝ち組に属する人々をたくさん知っている。しかし、そういう人々が幸せかといえば、必ずしもそうとはいえない。仕事に追われ、時間に追われ、心理的に休む間もなく働いている。

 わたしは基本的に、人間なにが幸せかといえば、「やりたいことを、やりたいように、やる」という一点に尽きると思っている……

 とするなら、永遠のトップ集団内自己維持願望をどこかで捨てて、あとは好き勝手に脱線することを楽しむ人生に切り替えるべきだろう。(348頁)

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)