photo credit: Eneas via photopin cc

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 「私は彼が自動機械でないと信ずる」というのは、かくしてそのままでは、いまだいかなる意義ももってはいない。私の彼に対する態度は、魂に対する態度である。私は、彼には魂があるという意見をもっているのではない。

 

 先月末、男子大学生が交際相手の女子学生に自殺をそそのかした自殺教唆の容疑で逮捕され、その後検察側の勾留請求が東京地裁に却下され保釈されるという出来事があった。

 男子学生は交際相手の女子学生に無料通信アプリ「LINE(ライン)」を使って「お願いだから死んでくれ」「手首切るより飛び降りれば死ねるじゃん」などとメッセージを送信し、翌日未明に女子学生は自宅マンションの8階から飛び降りて死亡した。

 数日後、警視庁に男子学生が自殺に追い込んだという情報提供があり、同署がLINEの記録を調べたところ自殺をそそのかすメッセージが見つかったため男子学生を逮捕した。しかしマスコミの報道によると、女子学生は以前から自傷行為を繰り返し自分の手首の写真をTwitterに晒すなど精神的に不安定なところがあったようだ。こうした背景的文脈を考慮して保釈されることになったのだろう。

 以前に女子中学生の自殺について取り上げたときにも述べたが、LINEやTwitterといったSNS(ソーシャルネットワークサービス)がらみの事件は舞台装置がいかにも現代的で、かつSNSそのもので情報が拡散しやすいので大きく取り上げられ話題にされがちである。しかし事の本質は昔とさほど変わらない。つまり自殺の原因や背景は人間関係や社会的・経済的・精神的状況にあり、そのきっかけや道具がそのときどきによって違ってくるに過ぎない。

 しかしそうは言っても、今回の出来事で少し気になったことがある。

「魂」に対する態度

 わたしの好きな哲学者の一人にルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいる。そしてわたしの好きなウィトゲンシュタインの言葉の一つに「魂に対する態度」(eine Einstellung zur Seele)というものがある。同じく哲学者の永井均氏が著作のタイトルにするくらいだから(永井均『〈魂〉に対する態度』)ウィトゲンシュタインの哲学を理解する上で重要な鍵となる概念でもある。

 小難しい哲学的な議論は脇に置いて、わたしが理解する限りにおいてこの概念が示唆していることは、他人にわたしと同じように「魂」があるということはわたしの生(Leben)の前提であって、科学的解明や合理的論証を要するようなことではない、ということである。

 他人にわたしと同じように「魂」がある、ということは、他人もわたしと同じように嬉しかったり、悲しかったり、楽しかったり、苦しかったり、爽快だったり、憂鬱だったり、不安だったり、冷静だったり、感動したり、失望したり、愛したり、憎んだり……、そのように生きている存在であるということである。

 ちなみに……の部分には無限に言葉が入りうるので、他人の「魂」は私の「魂」と同様に言葉で語り尽くすこと、捉え切ることはできない

 他人には「魂」がない、ということをまともに信じて生きていくことはわたしにはできない。かりにそれができるとしたら、そのときわたしはまともには生きていないはずである。すなわち、現在のわたしの想像を絶する(脳内)世界にいるだろう。

 こう言ってしまえば当たり前のことである。哲学は当たり前のことを疑うところから出発するが、哲学に関心がなければバカバカしいほど当たり前のことである。

 ただ、これも「当たり前」のことだが、他人の「魂」は、目の前のコップやパソコンのようにはわたしの世界には実在しない。つまり、他人の経験している喜び、悲しみ、楽しみ、苦しみ、感動、失望、愛、憎しみなどは、わたしの経験する世界には実在しない。

 したがって、かりにわたし以外の世界中の人が地獄のような痛み苦しみのさなかにあっても、論理的には、わたしはまったく痛み苦しむことなく生きていける。

 

他人の「痛み」を知るということはいかなることか

 ウィトゲンシュタインは「他人の『痛み』を知るということはいかなることか」というテーマをかなり執拗に追求している。

 他人が「歯が痛い」と言うとき、わたしはその「歯の痛み」を直接経験するわけではない。わたしは自分の「歯の痛み」の経験から他人の「歯の痛み」を類推するしかない。ただ、それがどの様に痛いのか、どの程度痛いのかは正確には分からない。

 わたしにできることと言えば、わたしの「歯の痛み」の経験から、わたしが他人に理解してもらいたかったこと、してもらいたかったことを、理解し、してやることぐらいである。

 そしてそれは、他人の「痛み」をわたし自身の「痛み」として感じ取ることができればできるほど、うまくいくだろう。ただ、わたし自身は「痛い」わけではないので、それはその気になれば経験しなくてよい「痛み」をわざわざ経験することでもある。

 したがって、「うまくいく」ことを気にせずやり過ごすことができれば、「痛み」を経験しないですむ。

 あるいは、わたしは男なので女性の「生理痛」がどの様に痛いのか、どの程度痛いのかは自分の経験からは類推できない。これについてはわたしの「生理痛」に関する知識や経験――科学的・医学的知識、様々なソースからの情報、女性の証言や体験談、社会的なルールや慣習、誤解や無理解から生じた人間関係上の失敗の経験など――から総合的に判断して想像するしかない。

 わたしにできることと言えば、そうした想像に基づいて、女性が理解してもらいたいであろうこと、してもらいであろうことを、理解し、してやることぐらいである。

 そしてそれは、女性の「痛み」をわたし自身の「痛み」として感じ取ることができればできるほど、うまくいくだろう。ただ、わたし自身は「痛い」わけではないので、それはその気になれば経験しなくてよい「痛み」をわざわざ経験することでもある。

 したがって、「うまくいく」ことを気にせずやり過ごすことができれば、「痛み」を経験しないですむ。

 また、「歯の痛み」「生理痛」のような生理的・身体的な痛みではなく、「心の痛み」のような心理的・精神的な痛みもある。そしてこの場合も「失恋したときの痛み」のように自分の経験から類推できるものもあれば「恋人が自殺したときの痛み」のように自分の経験からは類推できないものもある。

 いずれにせよやはりわたしにできることと言えば、他人が理解してもらいたいであろうこと、してもらいであろうことを、理解し、してやることぐらいである。

 そしてそれは、他人の「痛み」をわたし自身の「痛み」として感じ取ることができればできるほど、うまくいくだろう。ただ、わたし自身は「痛い」わけではないので、それはその気になれば経験しなくてよい「痛み」をわざわざ経験することでもある。

 したがって、「うまくいく」ことを気にせずやり過ごすことができれば、「痛み」を経験しないですむ。

 

「魂」のない世界

 他人にわたしと同じように「魂」がある、ということは、わたしの生の前提であり、当たり前の現実であるが、わたしの「魂」の疲弊の根源となる現実でもある。

 そもそもそれは、その気になれば経験しなくてよい経験の「塊(かたまり)」である。

 したがって、他人から「魂」を消し去って「自動機械」に置き換えることができれば、「その気になれば経験しなくてよい経験」をしないですむ

 そしてそれを容易に実現する方法があれば、それを用いてわたしの世界を構築したほうが楽しく平和に生きられるような気もする。

 わたしにとってそれは想像を絶する世界であったはずだが、じつはすでにリアルな世界になりつつあるのかもしれない。

 

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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