20140222-1-1

 

 ソチオリンピックのフィギュアスケート女子シングルのフリープログラムでの浅田真央選手の演技について、“魂の舞”という表現をテレビで見かけた。

 なぜここで“魂”という言葉がふさわしいものとして出てくるのか。そのことについて考えてみた。

人間社会を象徴する祭典としてのオリンピック

 オリンピックは、世界のアスリートが金メダルを目指して力と技を競い合うスポーツの祭典である。ただ、「スポーツの祭典」であるに留まらず、人間社会の最大級の祭典でもある。そしてそれが「人間社会の最大級の祭典」でもあるのは、それが人間社会を「象徴する」祭典でもあるからだ。

 人間社会の何を象徴しているかというと、ひとまずそれが「競争社会」であるということだ。

 言うまでもなく、人間社会は「競争」で成り立っている。(ただそれは人間社会に限らず生物社会全般に言えることではあるが。)そして、競争社会であると言うことは「結果」を評価する社会であるということだ。

 人間を評価する基準として、しばしば、「結果」「努力」という対立軸が用いられる。そして社会(または他人)の評価軸は、基本的に「結果」である。つまり、文学的な装飾を一切剥ぎ取ってストレートに言えば、社会や他人にとって「自分」の価値は自分のアウトプット、自分のすること、したこと、できること、にある。

 上司から新商品の企画を指示されて、良いアイデアをまったく出せなければ、上司からの評価は最低になる。会社から新商品の販売を任されて、売り上げがまったく伸びなければ、会社からの評価は最低になる。消費者が新商品を購入して、仕様通りのパフォーマンスをまったく発揮しなければ、消費者からの評価は最低になる。

 このとき、「結果は出せなかったけれど努力しました」と弁解したらどうなるだろうか。おそらく評価は最低を突き抜けて地獄に落ちるだろう。つまり、他人や社会から見たら「結果がすべて」なのである。

 この厳しさが社会には必要である。人間社会の進歩は、無数の人間の「結果」の積み重ねで実現する。ゆえに「結果」を出した人間を正当に評価する仕組みがなければ進歩は止まり、やがて衰退し崩壊するだろう。

 

「努力」という「自分」にとっての価値

 ただ「努力」にまったく価値がないかというと、そんなことはない。

 まずそれは、「自分」にとって価値がある。最初は良い「結果」を出せなくても、「努力」を積み重ねることによって良い「結果」が出せる可能性(確率)が高まる。良い「結果」が出せる可能性が高まるのは、試行錯誤による知識や理解の習得、技術の習熟、そして身体的・精神的な鍛錬とそれによる自身の獲得などによるだろう。

 ただしばしば口にされる「努力は“必ず”報われる」とか「夢は“必ず”叶う」などという表現は、努力が結果をもたらす確率の文学的な誇張であって、“必ず”などということはない。最大限の努力をしたにもかかわらず期待される結果が結局出せないことは当然ある。というか、統計を取ったわけではないが、おそらくその方が日常的な事実であろう。

 いま「日常的な事実」と言ったが、「人生の事実」と言ってもよい。

 例えば、オリンピックでの浅田選手の演技を見て「自分も真央ちゃんみたいになりたい」と思った小さな子どもは多いだろう。でも実際に「真央ちゃんみたいに」なれる人はほんの一握り、というか一人もいない可能性もある。つまり、大勢の人が「結果」を出せずに終わるだろう。

 そしてその「大勢の人」は社会の中で喝采を浴びることもなければ表彰されることもなく、無名のまま「その他大勢の人」として生きていく。その「その他大勢の人」の“血のにじむような努力”は社会や他人から顧みられることのないまま消えていく。

 しかし視点を「その他大勢の人」のそれぞれの「自分」に置き換えてみると、その“血のにじむような努力”はかけがえのない「価値」がある。なぜならそれは「自分」の「次の人生」のベースとなるからである。そしてその「次の人生」において、「次の結果」を出すためのステップボードとなるからである。

 

人生には常に“次”がある

 オリンピックの競技はたいてい一瞬で勝負が決まる。トーナメントで金メダルが決まるまでを含めてもせいぜい数日である。人生においても勝負どころは一瞬であることは多い。そしてその一瞬で“すべてが終わる”こともある。

 しかしこの“すべてが終わる”というのも文学的な表現で、実際には“すべてが終わる”ようなことはない。なぜなら人生には常に“次”があるからである。つまり、生きている限りは、どれほど短時間であろうとも、必ず“次”がある。

 オリンピックで金メダルが取れなかったからといって、それで「人生」が終わるわけではない。オリンピックに出られなかったからといって、それで「人生」が終わるわけではない。現役を引退したからといって、それで「人生」が終わるわけではない。病気で競技を続けられなくなったからといって、それで「人生」が終わるわけではない。「次の人生」のステージが新たに始まるだけである。

 つまり、人間(「自分」)にとって「努力」の価値は“次”への希望を生み出すところにある。そして、この“次”への希望は、「人生」そのものへの希望と同じである。

 したがって、「努力」はまずもって「自分」にとっての、「自分の人生」にとって価値なのである。

 

次の世代の「自分」にとっての価値

 ただ、それだけではない。

 「努力は『自分の人生』にとって価値がある」ということそのものが、「人生の事実」として社会のなかで伝えられ、教えられることによって、“次”の世代への希望につながっていく。

 つまりそれは、次の世代の「自分」にとって、次の世代の「自分の人生」にとって価値あるものとなる。そしてそれが次の世代の次の結果を生み出すステップボードとなるのである。

 じつは、このような意味において「努力」を高く評価し、それを伝え継ぐ社会は、単純に「結果」“だけ”を評価する社会に比べて、世代間的・長期的に「持続可能な発展」を成し得る可能性が高いと推論できる。

 ゆえに、およそ伝統のある社会は、比喩的に言えば“表”で「結果」を評価する一方で、“裏”で「努力」を評価するような文化的な仕組みを備えている。

 そしておそらくこの文化的な仕組みの象徴的表現の一つが、“魂”なのである。

 

浅田選手の「自分」は「その他大勢の人」の「自分」であもある

 浅田さんは、オリンピックの最後の最後の舞台ですばらしいパフォーマンスを見せた。日本の、世界の多くの人々に感動を与えた。それはまさに“魂の舞”と表現するにふさわしいものだった。

 ただこのパフォーマンスもある意味では“魂の舞”を美しく装飾し、それを感動的な“魂の物語”に昇華する一つの「結果」に過ぎない。

 この“魂”の真髄は本当はどこにあるかというと、「金メダル」という社会や他人の騒音から隔絶したいわば“無音の心象舞台”の中でそれまでの「努力」のすべてをその瞬間に注ぎ込んで「自分の最高の演技」を実現することに集中したその心の有様だとわたしは思う。

 もしかしたら、それは「自分の最高の演技」をもたらさなかったかもしれない。しかしそれでも、それはなによりもまず浅田さんの「自分」にとって、「自分の人生」にとって価値あるものとなっただろう。

 ただそれは“魂の舞”として、感動的な物語として伝え継がれることによって、間接的で遠回りであるにせよ、「その他大勢の人」の「自分の人生」にとっても価値あるものとなるだろう。

 「失敗にくじけずにがんばる」「負けても心が折れずに挑戦し続ける」 “魂”という言葉は、そうした心の有様の価値を伝えるためにある。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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