今回から不定期で「言霊(ことだま)」について取り上げたい。

 とくにある特定の出来事や現象についての話ではないので、「コトダマ新聞」で取り上げるべきではないかもしれないが、最近は何でもありの様相を呈してきているのでこちらでもいいかなと思った。ただその一方で、最近のジャーナリスティックな話題のなかで「言霊」の親類関係にある種々の言葉(「英霊」とか「魂の旋律」とか)が大きく取り上げられたりしているので、「言霊」について考えていることを明らかにしておいた方がいいだろうと思った次第である。本来ならばもっと最初のほうできちんと取り上げるべきだったが忙しさにかまけてずるずると後回しにしてきたので、これらの話題は結果として重い腰を上げるきっかけを提供してくれたとも言える。

「言霊」と「コトダマ」

 このサイトの名前は「コトダマの里」である。このサイトにおける「コトダマ」の意味は「コトダマとは」で説明している。

 ただし、なぜ「コトダマ」と名付けたのかについては詳しくは説明していない。もちろん説明するまでもなく「コトダマ」は日本語における一般名詞としての「言霊」に由来する。しかしあえてカタカナの「コトダマ」にしたのは、いろいろな点で誤解されないためである。

 まず、ネット上で「言霊」を検索すると、ウィキペディアを始めとした各種辞書サイトが出てくる。それ以外は、各種の宗教団体・組織、宗教的主張・活動、スピリチュアル・サークル、自己啓発、ヒーリング・セラピー、人間関係のハウツー解説のサイトなどである。

 つまり現在の日本では「言霊」はそのような事柄のキーワードになっている。

 「コトダマの里」はそのような事柄とは無関係なので、サイトのタイトルに使うのは不適切であるし、そのような事柄を調べるために検索している人にとってはたんなるノイズで迷惑になるだけである。したがって、「言霊」という表記を避けて「コトダマ」とカタカナで表記することにした。

 ただその一方で、あえてそのような変則的なことまでして「コトダマ」という表記を用いたのは、「コトダマの里」の主旨や理念は「言霊」という言葉の辞書的な意味―つまり常識的な意味―でもっともよく伝わると思ったからである。

 

「言霊」の辞書的な意味

 定番の広辞苑では、「言霊」は次のように定義されている。

 言霊(ことだま)

 言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。(『広辞苑 第六版』)

 
 ただし、この定義では「霊」の意味が明確にならないと結局「言霊」の意味も明確にならない。そこでとりあえず「霊」を脇に寄せて再定義すると、「言葉が持っている、その言葉が指示する現象を実現する力」ということになる。

 これについて先に現代的解釈をしておくと、言葉が持っているのは「力」そのものではなく、「力」をコントロールする「情報」である、ということになる。そして、言葉はそうした「情報」を伝達する媒体である。

 例えば、わたしが誰かに「コップを持ってきて」と頼み、その人がコップをわたしの目の前のテーブルに置いたとしよう。この状況のある断片だけを恣意的につなげてみれば、「コップを持ってきて」という言葉がテーブルの上のコップという事象(事実)を因果的に実現しているようにも見える。「コップを持ってきて」以外にも、「コップが欲しい」とか「コップがあるべき」とかという言葉でも同じようにテーブルの上のコップという事象を実現するかもしれない。

 ちなみに、わたしが「テーブルの上にコップがあるべきである」と発言して、実際にテーブルの上にコップが現れるという事象が生じたら、そのことだけを見ればいかにも「予言的(預言的)」である。もちろん現実には、わたしの発言に従って誰かが何らかの方法でテーブルの上にコップを置いただけであるが、おそらく「宗教的事象」「超常現象」の大半はこうしたからくりだろう。

 実際には、言葉はリアル世界のなかで直接的に物理的効果を及ぼすのではなく、直接的には情報的効果を及ぼす。すなわち、「コップを持ってきて」という言葉は何らかの「情報」を持っていて(持ちえて)、誰かがその情報を受け取り(解釈・解読し)、その情報に基づいて何らかの行動を起こし、それによってリアル世界の中で何事かが生じる。

 言ってしまえば、それだけのことである。

 

「言」と「霊」が結合して生まれる「力」

 それだけのこと――かもしれないが、それだけでは終わらない、ことでもある。

 というのも、言葉は「それだけのこと」でリアル世界にとてつもない「効果」をもたらすからである。 例えば、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」以下数節に渡る言葉は、人類のリアル世界にとてつもない「効果」をもたらした。「一切の形成されたものは無常である」という言葉も、同様に計り知れない「影響」を及ぼした。

 これらの言葉が生み出した(と言える)とてつもない「人間的エネルギー」と「人間的事象」を考えると、上述したような単純な情報論的解釈では説明が不足するように思える。つまり、言葉がなぜそのような「力」を持ち得るのか。

 ここで、「霊」という概念が重要なポイントになる。「霊(たま)」という言葉は「魂(たましい)」という言葉と語源的に同根であり、文字通り「霊魂」を意味する。「意味する」と言っても、「霊魂」がリアル世界に実在するかどうかはまた別であるが。

 つまり簡単に言えば、言葉が上述のような「力」を持つことを理解するためには、「霊魂」という概念が必要になる。「必要になる」というより、わたしの考えでは必須である。

 「言」と「霊」が結合してはじめて「力」が生まれる――文学的に言えば、そういうことである。

 「言霊」という古代遺跡のような言葉、現代ではさまざまな意味づけで自由気ままに利用されている言葉が、今なお真面目に取り上げるに値する価値をもちうるのは、このような文脈においてである。

 ちなみに余談であるが、“E=mc^2”のような「数式」もリアル世界のなかで途方もない「力」を発揮することがある。ただこの種の「数式」の持つ力は基本的に人間社会の知識・技術体系にもたららした「情報的効果」とその産業的アウトプットに由来するもので、「霊魂」とはあまり関係ないと思われる。

 次回は、「言霊」の由来について考えてみたい。

 

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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