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photo credit: Ken_Mayer via photopin cc

 先般、「尊厳死法案」が国会に議員立法として提出される動きがあったのをきっかけに「尊厳死」についての議論がまた活発化したようだ。

 法案の是非はともかく「議論」が活発化するのは良いことだ、と当初思っていたのだが、どうも少し――というか、わたしから見ると根本的に――「議論」の焦点がずれているように思われる。これについては以前も若干述べたが、コトダマの里の理念にも関わることなので改めてポイントだけ簡潔に書いておくことにした。

尊厳死の法制化をめぐる対立軸

 尊厳死(安楽死を含む)の問題は、基本的には、「消極的自由(~からの自由)/積極的自由(~への自由)」「自由権/社会権」のどちらを優先するかをめぐる政治哲学上の伝統的な対立が土台にある。そしてそれは「右派(リバタリアン保守)/左派(リベラル社民)」の党派的な対立の土台でもある。

 これを踏まえて単純化して言えば、前者からは「自己の死のあり方は個人の自由(自己決定)の問題であり、他者(国家)から干渉・介入されるべきではない」という主張が導かれ、後者からは「死のあり方に関する個人の自由は社会のすべての成員の生存権や福祉の保障を前提条件にしなければならない」という主張が導かれる。

 いずれにしても日本は政治体制としては法治国家であり議会制民主主義であるので、どちらの主張も社会の成員全員に対して強制力をもつためには「法律」として制度化されなければならない。現在検討されている「尊厳死法案」は「死のあり方(死生観)に関する個人の自由(自己決定)」を制度的に保障するのが基本的な趣旨なので、ひとまず前者(右派)の立場からのものと言える。ゆえにまた、後者の立場をとる人は反対するだろう。

 ちなみに尊厳死の法制化を推進する立場の「背景」として、「社会保障費・医療費の削減」がしばしば指摘される。功利主義ないし財務省の観点からは尊厳死法案の最大の意義(価値)はそこにあるだろうが、それは論理的には「後回し」にすべき論点である。

 さて、左派の立場からは、尊厳死法案は「すべての成員の生存権や福祉の保障」がない限り認められるべきではない、という反対の立論が成り立つ。つまり「死のあり方に関する個人の自由(自己決定)」の名の下に「生存権や福祉」が侵害されるのではないか、および侵害されないことの制度的保障がないのではないか、という議論である。

 実際のところ、現状では「制度的保障」はないに等しい。さらに言えば、現在の日本の「非制度的」、つまり政治・経済・社会・文化的情況を鑑みれば、「さっさと死ぬ」方向へ著しい圧力がかかっていることは誰の目にも明らかである。

 周りに介護・看護してくれる人はいない。十分な医療・介護サービスを受けるカネもない。ホスピスや緩和ケア病棟も不足している。もはや満足に動けない状態で生き続けても家族や社会に迷惑と負担をかけるだけである。だったらさっさと死んだ方がまし――

 わたしの見立てでは、現在の日本ではこうした考えはけっして「非常識」ではなくなってきている。そして同時にまた、社会のすべての人が自らの「自己決定」で「ぎりぎりまで生き続ける」ことを選択できるように保障しているものも見当たらない。

 

「死のあり方」をめぐる思考停止・コミュニケーション中止

 ただここで留意しておくべきことは、そもそも「死のあり方」に関しては「制度的保障」はなじまない側面がある、ということである。

 というのも、個人の死のあり方に関しては、「どうあるべきか」という理念の問題とはまったく別に「どうあるか」という現実の問題がある。そしてその「現実の問題」についてはどんな人でも多かれ少なかれ「社会関係」と「社会的文脈」があり、そしてそれはそれぞれ個別的事情があり、ケースバイケースである。

 そして重要なポイントは、尊厳死の法制化はこの「個別的事情」への配慮をいわば「用済み」にする可能性がある、ということである。

 すなわち、尊厳死の法制化を推進する立場のもう一つの「背景」には「訴訟沙汰を未然に防ぐ」ということがある。つまり、尊厳死の要件を法律で明確化し、終末期の医療プロセスをそれに則った形に標準化することで、後々医療従事者と遺族の間でトラブルになりがちな曖昧な要素をなくそう、ということである。

 このこと自体は一見なんら問題のない、むしろ当然のことのように思える。医者の立場からみると、個別的事情の中で生じた曖昧な要素に関する判断の責任を一身に負わせられるのはたまったものではない。したがって、個別の医師の考えはともかく業界としては、終末期医療に関してはルールに基づいて標準化した処置を確立したいところだろう。

 ルールに基づいて粛々と― 尊厳死の法制化に伴う本当の問題はここにある。それは端的に言えば、「死のあり方」をめぐる思考停止、コミュニケーション中止である。

 ここで改めて指摘しておけば、「自己決定」には2種類ある。すなわち、よくよく考えた、話し合った上での「自己決定」と、何も考えていない、何も話し合っていない上での「自己決定」である。

 これまでも――戦後の日本社会の近代化のなかで伝統的な社会的、文化的、宗教的慣習の規範的拘束が弱まるに従い――「死のあり方」は最終的には個人の「自己決定」に委ねられてきた。ただこれまでは、伝統的規範に代わる「死の観念」を個人のレベルでも社会のレベルでも模索する中での「自己決定」であった。

 人間にとって「死」とは何か。自分にとって「善い死に方」とはどのようなものか。社会のすべての人にそれに「正解」を答えてくれるような社会的、文化的、宗教的規範はもうない。それは自分で答えを探さなければならなし、あるいは自分で新たに考え出さなければならないのである。

 それは暗中模索、試行錯誤のプロセスであり、またそうしたプロセスの中では軋轢やトラブルは必至である。とくに終末期の現場では、すべての当事者が必至に考え、話し合い、とにもかくにも答えを出さなければならなかっただろう。しかしある意味で逆説的であるが、だからこそ「自己決定」に意味があったと言えるのである。

 

「死のあり方」をめぐる“不毛な議論”と“建設的な議論”

 さて、現在はどうであろうか。尊厳死の法制化が具体化し始めている今、社会全体を覆っているのは「考えても仕方がない」「話し合っても仕方がない」という“空気”ではないだろうか。あるいは、「どのみち結末、結論は見えている」という“諦観”と言ってもいいかもしれない。

 かくして、「死のあり方」についての真剣な思索や議論を「自己」という“ブラックボックス”に封じ込め、「自己決定」の名の下に停止させる、そうした(福)作用をこの「尊厳死の法制化」がもたらすことがもっとも根本的に懸念されることなのである。

 ちなみに、終末期における延命治療の停止に関する「リビングウィル」を15歳以上から制度として認めることが検討されている。検討するのは結構だが、それについての熟慮や熟議を十分なものとする制度的な仕組みやプログラムはどうなっているのであろうか。まさか各種のSNS(ソーシャルネットワークサービス)に委ねているわけではないと思うが、どうなのだろう。ついこのあいだ、ネット上で拍手喝采を集めるために自殺をオンラインで実況中継した女子中学生がいたが、それは「自己決定」という観点からどのように捉えられるべきなのだろうか。

 いずれにしても、“何も考えない、何も話し合わない”「自己決定」のもとでもひとまず社会を回していくことはできる。なぜなら、「経済」があるからである。ここに至って初めて、「社会保障費・医療費の削減」を“真剣に”「議論」できる土俵が現れてくる。それは「死のあり方」をめぐる“観念的で”“不毛な”「議論」の場ではなく、“現実的で”“建設的な”「議論」の場である。

 尊厳死をめぐる「議論」をこのようなレベルで考えている人は少なくないかもしれない。ただ、わたしは本当は正反対だと考えている。

 

尊重に値する自己決定をサポートする制度的仕組みこそが必要

 わたし自身はこのような活動をしているので常日頃から「死のあり方」を考えているという“例外的”な境遇にあるのだが、それにしてもいまだ結論や結末が見えているわけではない。しかも考え考えるほど、話を聞けば聞くほど、それまでの自分の死生観が揺らぎ、結論はさらに遠ざかっていく。

 ここで誤解のないように断っておくと、「死のあり方」について考えることと、「希死念慮(自殺願望)」とはまったく異なる。鬱状態などのときに情動的に生じてくる「希死念慮」はむしろ死についての冷静な判断や慎重な考慮の妨げになる。逆説的ではあるが、それはある意味で「死からの逃避」である。

 こうした状況のなかでとりあえず個人的にできることは、ともかくその都度その都度の自らの考えと意思を書き留めておくことである。ただそれは「清書」はできない。なぜなら、まだ考えることの途上だからである。

 自分の「死のあり方」は自己の人格の尊厳と自律性にとって決定的に重要である。ゆえに、「死の自己決定」は最大限に尊重されるべきである。しかしそれと同時に、その「死の自己決定」は熟慮に基づいた尊重に値する決定でなければならない。そうした自己決定をサポートする制度的仕組みとプログラム、プロジェクトこそが今本当に必要なものなのである。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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