新潟市で開かれた篤志解剖全国連合会の実務担当者研修会(出典:NPO法人宮崎自殺センターを応援したい 2010.10.29)

新潟市で開かれた篤志解剖全国連合会の実務担当者研修会(出典:NPO法人宮崎自殺センターを応援したい 2010.10.29)

献体希望の高齢者増える 死の迎え方、自ら選ぶ 「家族に迷惑掛けない」

 「医学の発展に役立ててほしい」と、死後の自分の体を大学医学部などに提供するための献体登録をする高齢者が増えている。「人生の最期に社会貢献できる」制度として知られるようになったほか、死の迎え方をめぐって個人の意思を優先し、葬儀や墓にこだわらない傾向が強まっていることも一因のようだ。

 献体運動を進める「篤志解剖全国連合会」(東京)が全国約100大学の協力を得て調査、1970年度から献体登録者は今年3月末で累計25万人を超える。

 現在の登録者は推定約15万人。毎年3500人前後が解剖されているが、主に高齢者からなる5千人前後の新規登録によって年々増加。新規登録をストップする大学もあるという。

 「献体」とは、「医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供すること」を指す。

 大学の医学部では解剖実習は必修で、かつては大学は献体集めに苦労した。しかし近年は献体希望者が急増して、逆に登録を制限するところもある。

 献体は、理念的には、「医学の進歩や医学生の技量向上のために自分の身体を役立ててもらいたい」という「社会貢献」の意識があるはずである。しかし近年献体が急増している背景には、「葬儀・埋葬費用の節約」という経済的理由・動機があるという。具体的には、献体すると一般に火葬の費用は大学が負担し、遺族が遺骨を引き取らなければ大学の納骨堂などに納められる。さらには、孤独死などで遺体の引き取り手がいない場合は行政が献体を依頼してくるケースもあるという。

 「葬儀費用の節約」という観点は、近年の「葬儀の簡素化」の潮流と同根である。しかし問題は、献体希望者が急増して希望通りに「節約」できるとは限らない、ということだ。大学や地域によっては登録に「5年待ち」とか「競争率10倍」とか、保育所の“待機児童”ならぬ“待機老人”状態になってしまうところも出てきているようだ。

 つまり比喩的に言えば、献体はかつての「供給不足」から「供給過多」へ、「売り手市場」から「買い手市場」へ変化したことになる。となると、献体の「価値」は下がる。

 このことは何を意味するだろうか。
 直截に言えば、大学など献体を受け入れる側での「感謝の気持ち」の低下につながるだろう。これはすなわち、故人を「弔う気持ち」の低下も意味する。実際それをうかがわせるような記事も散見される。

母の遺体を献体した64歳女性「遺志をかなえても残る後悔」

……(中略)……

 母がすごくこだわったのが、献体でした。母は医者の娘なんです。10代で結婚してから、仕事もしたことがなく、ずっと家庭を守ってきた人。何かひとつでもいいから、社会の役に立ちたいと強く願っていました。そんなときにホームドクターから献体の話を聞き、心を決めたようです。

 亡くなる10年ほど前には、大学へ献体の登録を済ませ、何度も私や兄や妹に、「献体登録していることを忘れないでね」と念を押すほどでした。

 母が危篤状態になったとき、彼女の「遺言」ですから、献体の準備を進める手続きを取りました。でも、戸惑うことばかりで……。お葬式をあげたあと、火葬場へ行く代わりに、母の遺体は大学病院へ運ばれたのですが、戻ってくるのは1~4年後と言われました。そんなに長く戻ってこないなんて、知らなかったんです。遺骨がないから、納骨もできないし、一周忌もどうしようか、と兄妹と話していて。遺骨がないって、心もとないものですね。母が亡くなったという実感が薄くて、どこに悲しみを向けていいのかわからないんですよ。

……(中略)……

 また、母が思っていた「献体」と現実との間にはギャップがあったように思います。母の年齢と、死因が老衰だと知ったときの大学病院側の反応は、「社会の役に立ちたい」という母の思いとは、少し温度差があるような気がしました。

 
 もちろん、大学当事者は「感謝の気持ちが低下した」などとは表だっては口が裂けても言えないだろうが、陰に陽にさまざまな形でそれが表れてくる可能性はある。「どうせ葬式代をけちってるんだろう」「うちは遺体処理場じゃない」という気分が多少なりともあると、それにますます拍車がかかるだろう。
 ただここで問題なのは、このことが「社会貢献」を理由・動機とした本来の献体に悪影響を及ぼすことである。

 わたしは以前から、葬儀の簡素化は必ずしも「供養心」の低下、「弔うココロ」の希薄化ではない、と述べてきた。

 そうではなく、供養という観点から見て意味がないと思われることに経済的、時間的、精神的コストを払うのは馬鹿馬鹿しい、という意識もあるはずである。さらにまた、供養にさいしては個人(故人)の意思や希望をできるだけ尊重するという「死の個人化」の趨勢も背景にあると思われる。

 したがって、供養する側(遺族)の「弔うココロ」の観点から見ると(そもそも「弔うココロ」がないような場合は除いて)、「葬儀・埋葬費用の節約」ではなく「社会貢献」という故人の意思や希望を尊重するからこそ献体が受け入れられる、ということがある。つまり、献体そのものが「弔い」になるわけである。

 ところが、献体の「価値」が低下して「社会貢献」としての意義も弱まる、のみならず、献体が軽々しく扱われるような状況ではもはや「弔い」にならない。

 こうなると「社会貢献」を理由とした献体はしずらくなる。するとますます「葬儀・埋葬費用の節約」を理由とした献体の割合が多くなり、ますます受け入れる側の「弔うココロ」が低下する、という悪循環に陥る。

 そう考えると、先に「葬儀の簡素化は必ずしも供養心の低下ではない」と述べたが、葬儀の簡素化は間接的に、あるいは社会全体のレベルでは「供養心の低下」に因果的な影響を及ぼす可能性がある。そしてそれは、ある意味でますます「死の個人化」を進める、つまり死と弔いがますます私的で内面的なものになっていくことを予見させるのである。

 

コトダマ物語&コトダマ・レター選集1

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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