“Science without religion is lame, religion without science is blind.”
(宗教なき科学は脚が不自由なようなものであり、科学なき宗教は目が不自由なようなものである。)

「科学」と「宗教」

 「科学」と「宗教」の関係は、思想史における一大テーマだ。その一方で、「科学者」と「宗教」の関係は、「信仰の自由」の問題でもある。科学者だからといって「非科学的」なものを「信じてはいけない」わけではない。

 ドイツで敬虔なユダヤ教信者の両親から生まれたアインシュタインは、子どものころは両親の教えに従って熱心にユダヤ教を信仰していたが、やがて科学に関心を抱くようになると聖書との矛盾に悩むようになり、結局ユダヤ教から離れることになる。ただ人知を超えた自然の法則と秩序には終生畏敬の念をもっていた。字義通りであれ比喩的であれ、「人知を超えた自然の法則と秩序」は「神」と呼んでもいいかもしれないし、それに対する「畏敬の念」は「信仰」と呼んでもいいかもしれない。

 ただこのことはアインシュタインに限らず、多くの科学者に共通する心情かもしれない。あるいは科学者のみならず、「無宗教」を自認している一般の人でも、こうした心情を共有している人は多いだろう。

 そもそも科学は「人知を超えた自然の法則と秩序」に対する「信仰」がないと成り立たない、とも言える。ただそうした「自然の法則と秩序」が「善」なのか「悪」なのか、あるいはそれにどんな「意味」や「価値」があるか、という価値判断は科学とは関係がない。科学とは、そうした価値判断とは無関係に、ただ「真実」を探求する知的営みである。
 

「摂理」と「霊性」

 生命の有り様、宇宙の原理を沈思すれば、我々人間を含めた「存在の総体」は、驚くべき神秘に満ちているということほすでに述べてきた通りです。考えれば考えるほど、あらゆる存在(物質だけでなくそれを取り巻く空間や時間を含めた総体)とその生々流転の理は不思議というよりほかなく、我々はそれらの総体の輪郭さえ描くことができません。
 人間は、事物事象のメカニズムを解明していくことはできるかもしれません。けれども、それらの事物事象が、どうしてそのように在るのかという根本について解明することは難しいでしょう。そして人間は、我々を取り巻く森羅万象が解明されればされるほど、すべてが完壁にできていることを思い知るのではないでしょうか。その完壁さは、人間が考える科学的論理や善悪の倫理を遥かに超えた、まさしく摂理の業としか思えないようなものです。
 この全的な創造とその運用を司る大設計者、すなわち摂理の存在を感受できるのは人間だけであり、人々は遥かなる昔からその存在を知っていました。最初の宗教は、摂理の存在を知覚したところから始まったはずです。また、現代を生きる我々も、それを心の奥深いところでは感受しているのではないかと思います。(『人は死なない』p.194)

 
 矢作氏が「摂理」と呼んでいるものは、先に述べた「宇宙における自然の法則と秩序」に該当し、それについてはアインシュタインを始めとして矢作氏と同様の考えを抱いている科学者や一般人は多いと思う。

 さらに「霊性」につて、矢作氏は次のように述べている。

 自然科学の一領域である医療に従事する私としては、霊魂の研究に没頭した近現代の科学者たちの不思議な事象に対する科学的な好奇心や解明しようとする情熱、また強固な宗教的感性を理解できるし、敬意や共感も覚えます。
 ただ、私はこうした霊的現象を科学的に証明する必要があるのか、とも思うのです。本書で何度も繰り返し述べてきたことですが、そもそも摂理や霊魂の概念は、自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その科学的証明をする必要はないのではないのではないでしょうか。
 要は、霊的現象それ自体に意味があるのではなく、そうした現象の見聞や体験を通して受ける啓示、あるいは導き出される理念、真理こそが本質であると私は考えています。(『人は死なない』p.197)

 

「霊魂」は実在するのかしないのか

 「霊的現象それ自体に意味があるのではなく、そうした現象の見聞や体験を通して受ける啓示、あるいは導き出される理念、真理こそが本質である」というのは“微妙”な言い方である。すなわち、「霊的現象」それ自体については、「自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その科学的証明をする必要はない」と述べていて、少なくとも自然科学が対象とする実体ではないと想定されている。

 それではそれはどのような対象なのかというと、本書を読んだ限りそれについて明確な言明はない。自然科学の対象領域にはない領域に存在する何らかの実体と想定されているようでもあり、あるいは、それが何らかの実体として存在するかどうかは不明であるが、存在することを信じて生きることに意味がある、と主張しているようでもある。その点が必ずしも明確ではないので、本書の主張の核心がどこらへんにあるのか、今ひとつ計り知れなかった。

 それゆえ、「寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で『人は死ぬ』が、霊魂は生き続ける、という意味で『人は死なない』。私は、そのように考えています。」というメッセージで本書は閉じられているが、この「霊魂は生き続ける」という主張の含意も、人が死んでも霊魂が実体として存在し続けるということなのか、あるいはそのように信じることに意味があるということなのか、よく分からなかった。

 いずれにしても、前者と後者は根本的に異なるので、その点が曖昧だと多大な誤解が生じる可能性がある。もしかしたら矢作氏自身がこの点についていまだ明確な答えをもっておらず、明示的な言明を避けたのかもしれないが、そうであればこの点をさらに問い詰めた考察をいずれ公にしてくれることを期待したい。
 

「人間社会的実体」としての「霊魂」

 わたし自身は、「霊」「魂」「霊魂」は、当然、科学の対象になりうると思う。ただし、それらが物理的実体――宇宙における自然の法則と秩序に従う実体――として公共的に――誰の目にも明らかなように――確認できたことはいまだかつてない。(一部の人にのみ明らかなことは公共的に明らかであるとは言えない。)

 もちろん「霊魂」に関わる(言及する)現象は、公共的に無数に確認されている。ここで「霊魂」に関わる(言及する)現象とは、「霊魂」に関わる(言及する)生きている人間の行動や言葉、あるいはそれによって創り出された文章、絵画、写真、映像、その他諸々の制作物である。

 にもかかわらず、その言及されている当の「霊魂」は物理的実体としては公共的には確認されていない。このことは何を意味しているだろうか。

 それは端的に、「霊魂」は物理的実体ではなく人間社会的実体である、ということを意味している。つまりそれは、人間社会がある限り、そしてその限りにおいてのみ存在する実体である。「霊魂」は、そのようなものとしてはたしかに実在する。

 (この論点についてはいずれさらに掘り下げたい。)

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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