人生のエンディングをどうするか。「終活」に注目が集まっている。(出所:zakzak)

人生のエンディングをどうするか。「終活」に注目が集まっている。(出所:zakzak)

団塊世代の高齢化で「終活」がブームに 新たな問題も浮上

 生前から葬儀や埋葬、人生の閉じ方の準備を進める「終活」が“ブーム”だ。自分らしいエンディングへの意識が高まっている背景には、消費をリードしてきた団塊世代の高齢化がある。形式より気持ちを重視する流れのなかで最期のあり方も多様化し、新たな問題も浮上した。いつか迎える「その時」のために、どのような備えが必要なのか。

 ごく近い身内だけの「家族葬」、火葬場で荼毘(だび)に付すだけの「直葬」…。葬儀の簡素化が進んでいる。日本消費者協会が2010年に行った最新の調査によると、葬儀費用の総額は全国平均で199万8000円。前回、07年の231万円より約30万円下落した。

 隣近所の仕切り、葬儀会社の提案に任せていた葬儀のあり方に疑問を感じる人が増加。簡素化、低コスト化が進んだとみられる。

 葬儀の形骸化は緩和されつつあるものの、新たな問題も生じた。

 「直葬の場合、後になって親族や知人が『なぜ葬式をしなかったのか』とくちばしをはさみ、混乱するケースがある。遺族が『故人の強い希望です』と、毅然と対応できるよう、自分の意向はしっかり伝えておかなければならない」(大宮氏)

 以前は、残された家族に思いを伝える手段は遺言書しかなかった。現在は、法的な効力はないものの、より気軽に希望をつづっておける「エンディングノート」が登場し、専門のコーナーを設けた書店もある。11年に同名の映画が公開され、普及のきっかけになった。

 「葬儀の簡素化」と、その背後にある「死の個人化」の趨勢については、ここでもたびたび取り上げてきた。

 改めて「葬儀は誰のためのものか」ということを考えてみると、かつては、「故人のため」でも、「家族のため」でもなかった。もっと観念的な「イエのため」であった。
 つまり、家系という形で歴史的かつ抽象的に同一性を保つ「イエ」の威信と存続のために血縁・地縁・社縁・その他社会的に縁のある人たちと共同でなされる社会的儀礼であった。

 現代ではそうした「社会的儀礼」としての意義や意識も希薄化し、それゆえかえって故人(故人)のタマシイを弔う「ココロの場」として「純化」してきている。そのさい、形式的・儀礼的に過ぎない要素は積極的に排除されるので、見た目的には「簡素」になることが多い。

 そうするとけっきょく、現在の意識的趨勢としては、葬儀は「故人(個人)のため」という意識が強まりつつあると思われる。
 しかしそうすると、葬儀に関する故人(個人)の意思や希望がはっきりしていないときに葬儀を「簡素」にすませてしまうと、他人からみると「故人の意思を無視した遺族の勝手」とか、「はたして弔う気持ちがあるのか」などと邪推される可能性もある。

 つまり、葬儀は「故人(個人)のため」という意識が広まってくると、葬儀に関する意思や希望をはっきりさせておかないと遺族はその正当化のために余計な心理的負担を負うことになってしまう。とくに、社会的なつながりの多い人ほど、その点は十分に配慮する必要がある。

 そういう意味でも、エンディング・ノートやそれに類するものは「死の個人化」の趨勢のもとでは次第に一種の「社会的マナー」になっていくことが十分予想されるのである。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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