「事前指示書について」(出所:厚生労働省「平成24年度人生の最終段階における医療に関する意識調査速報」)

「事前指示書について」
(出所:厚生労働省「平成24年度人生の最終段階における医療に関する意識調査速報」)

尊厳死、自然死ブームの裏側にあるもの

 「胃ろうしてまで生きたくない」「無駄な延命措置はしてほしくない」。日常の会話の中でも、こうした言葉を聞くことが多くなった。

 やがて訪れる人生の終末期に、自分はどのような医療を受けたいか。6月27日、厚生労働省が発表した「人生の最終段階における医療に関する意識調査」によって、終末期に国民が望む医療の姿が明らかになった。

 同調査は、無作為に抽出した20歳以上の男女5000人に郵送で調査を依頼し、44%の2179人から回答を得たものだ。がん、心臓病、認知症、交通事故で回復の見込みがなくなった場合に、どこで過ごしたいか、どのような医療を希望するかなどを調査している。

 病気ごとに質問項目は若干異なるが、全体的に、肺炎になったときの抗生剤、水分補給の点滴は望むが、鼻や胃からの経管栄養、人工呼吸器の使用、心臓マッサージなどの蘇生処置は望まない人が多いようだ。とくに、胃ろうを望まない人は多く、7割以上は望まないという結果となっている。

 同調査では「事前指示書」についての質問もある。認知症などになって自分で物事の判断がつかなくなったときに備えて、元気なうちに終末期の治療方針を書き残しておくことに、69.7%の人が賛成と答えている。

尊厳死の背景にある「死の個人化」の趨勢

 「尊厳死」(および「安楽死」)をめぐる問題は、哲学や倫理学における抽象的、一般的な問題であるだけでなく、それぞれの個人の人生観や人生経験も絡んでくる現実的、具体的な問題でもあるので、万人が納得するような普遍的な解答(正解)はそもそもありえない。

 しかしでは逆にそれぞれの個人にその解答を委ねてしまえばよいかというと、それほど単純でもない。

 もともと死のあり方は「個人の人生観や人生経験の問題」というよりは「社会の慣習や文化」の問題であった。つまり簡単に言えば、死とは何か、あるいは人はどのように死ぬべきか、というような問題は、それぞれの社会の伝統的、宗教的な慣習や文化で「あらかじめ解決済み」の問題であった。

 それが、そうした慣習や文化の影響力や拘束力が弱まり、「個人の人生観や人生経験の問題」と理解されるようになってきているのはじつはごく最近のことである。『コトダマ新聞』では、この趨勢について「死の個人化」と呼んでたびたび取り上げてきた。

 そして「自分の死に方は自分で決める」という尊厳死の理念は、このて「死の個人化」の趨勢に棹さす理念の一つである。さらにもっと視界を広げるならば、昨今流行の「終活」もその趨勢のなかにあると言えるだろう。

 とはいえ、「自分の死に方は自分で決める」という「死の自己決定」が、理念はともかく現実にどこまで純粋に成立しうるのか、ということは尊厳死をめぐる議論のさいにいつも問題にされることである。つまり簡単に言えば、家族など周囲の人間の「(無言の)圧力」によって「決定させられる」のではないか、ということである。

 

尊厳死の背景にある「死の個人化」の趨勢

 ところで、“自立自助の国”米国では1990年代初頭に「患者の自己決定権法」が成立・施行され、事故や認知症などで患者が自分の意思を伝えられなくなる事態に備えて医療処置についての患者の希望(リビング・ウィル)を明記した「事前指定書(事前指示書)」(Advance Directive)の作成が医療機関に義務づけられている。また個々人が不測の事態に備えて事前指定書を作成しておくことは1980年代にカナダの老年医療の先駆者ウィリアム・モーロイ博士によって「自分で決める自分の医療“レットミーディサイド let me decide”」運動として提唱・推進され、日本でも一部の医療機関に導入されている。ただし現状では、名称や書式は医療機関によってまちまちである。

 また日本では、リビングウィルを公正証書として作成しておく「尊厳死宣言公正証書」も広まりつつある。

 尊厳死はまだ法律として制度化されているわけではないので、「尊厳死公正証書」を作成したからといって医療機関が必ずそれに従わなければならない義務はないし、延命治療が過剰か否かは当事者である医師の医学的判断に委ねられている。

 さらに「公正証書」と言っても、それはあくまで形式的に「公正」(自分の意思、自己決定に基づく)であることを保証しているだけであって、実質的に「公正」かどうかはまったく定かでない、ということは遺言の公正証書の場合と同様である。

 事前指定書を作成するに至ったきっかけや経緯はともかく、その動機としては、自分の人格の尊厳を守るということもさることながら、家族や周囲の人間に迷惑や面倒をかけたくない、という人も多いだろう。つまり、自分の人格の尊厳を守るということだけでなく、家族の人格や生活を守るということもそこには含まれているのである。

 そのように捉えてみると、リビングウィル(living will)における「ウィル(will)」、すなわち自分の意思、希望の中には「自己決定」と言い切ってしまうにはあまり複雑で微妙な他者との関係性や他者への配慮が含まれている。逆にそのような「ウィル(will)」であるならば、あるからこそ、書き残しておくに値するものなのである。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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