自分史の年表作りを説明する自分史活用推進協議会の高橋誠さん(出所:東京新聞)

自分史の年表作りを説明する自分史活用推進協議会の高橋誠さん(出所:東京新聞)

お父さんの「自分史」贈ろう 父の日 今年は「モノより思い出」を

 16日は父の日。今年のプレゼントは、定番のお酒やネクタイではなく、お父さんの「自分史」を作って感謝を表してみては-。顔を合わせて会話し、父の人生を知ることで、親子のコミュニケーションを深めることにもつながる。専門家に方法を聞いた。

 「自分史には、自分の生き方を肯定する効果がある。お父さんに贈れば、『俺の人生もまんざらでもない』と、喜ばれるのでは」と日本自分史センター(愛知県春日井市)の相談員芳賀倫子さん(70)。自分史は、自分で書くのが基本だが、子どもが聞き取って書いてもいい。亡くなった親の歴史を、日記などを基にまとめるケースもある。それで、親の人生を知り、感動する子どもも多いという。
 「誰でも言いたいことの一つや二つはある。残しておくことは、親子双方にとって大切」と芳賀さん。まずは「うれしかったこと」や「つらかったこと」などを聞いてメモを取り、少しずつ文章にまとめていくとよいという。

 取材後、記者も父(64)の話を聞いてみた。気恥ずかしかったが、父は「お父さんの歴史が知りたいのか」と意外にも乗り気。「それなら、たまにはみんなで外食するか」と、日曜の夜、家族で近所の回転ずしへ行くことになった。
 ビールが進むとさらに機嫌が良くなり、普段は口数が少ない父が冗舌に。「勉強はできなかったが、先生にはかわいがられた」「いたずらしておふくろが学校に呼び出され、その場でひっぱたかれた」。「小学校の時の思い出は」など、ごく簡単な質問で、自然と会話が盛り上がった。
 母(63)とのなれ初めや仕事での苦労、リタイア後の夢など、初めて聞く話も。父というより、一人の男性の人生を垣間見た、不思議な感じがした。

 

 わたしは、「自分史」は基本的に「書く」ものだと思う。

 ただし「書く」というのは、文字、文章を「書く」ということだけを意味しているわけではない。
 すなわち、詩を「書く」、絵を「書く」、漫画を「書く」ということもある。あるいは、音声や映像を用いたりすることも、ここで言う「書く」ことに含まれる。したがって、「書く」というよりは「作る」という表現の方がふさわしいかもしれない。

 つまり、「書く(作る)」ということは意図的な行為であり、そこには何をどのように伝えるかを「考える」という契機が必ず含まれている。この「考える」という契機が本質的に重要なのである。

 そもそも「書く」という行為の目的は、「コミュニケーション」、すなわち「伝える」(意思疎通する)ことである。そして「書く」という行為は、本当に「伝えたいこと」「伝えるべきこと」は何かを「考える」ということを必ず含んでいる。
 たんに出来事や事実をありのままに記録したものは、たんなる「データ」であって、そこから何を読み取るかは受け手にまったく委ねられている。したがって、たんなる「データ」の受け渡しは「コミュニケーション」(意思疎通または相互理解)とは言えない。
 つまり、コミュニケーションの送り手が何を伝えるかを「考えた」もの、つまり送り手が「書いた(作った)」ものがあってはじめて「コミュニケーション」が成り立つのである。そのさい、伝えるための手段は、文章でも、詩でも、絵でも、音声でも、映像でも、何でもまわない。手段が何であれ、それを用いて「書く(作る)」というステップがあることがコミュニケーションにとって本質的に重要なのである。

 ちなみに、データ形式上では、「文章」は「音声」や「映像」に比べて(人間の情報処理機能を前提にすると)圧倒的に情報量が少ない。したがって、それだけ何を伝えるかを十分に取捨選択して絞り込まなければならない。
 つまりそれだけ「頭」を使わなければならず、脳に負担がかかる。しかしその分、「文章」は「音声」や「映像」に比べて「伝えたいこと」「伝えるべきこと」のエッセンスが凝縮された”密度の濃い”コミュニケーション手段であるといえる。

 そういうわけで、自分史を文章で「書く」となれば、まさにうんうんうなって”脳みそを絞るように”書かざるをえなくなりがちである。いきなり書こうとしても、真っ白な用紙のまえにピクリとも筆が動かず、頭も真っ白のまま、という経験をもつ人も少なくないだろう。
 じつのところ、「書く」というのはむしろコミュニケーションの「最終局面」「仕上げ」のプロセスであり、そのまえに「脳を刺激」したり、「頭を柔らかく」したり、「心をリラックス」させたりするプロセスがあったほうが一般的にはより”スムーズなコミュニケーション”ができるだろう。
 具体的に自分史を作成するプロセスで考えると、写真やアルバムを整理するとか、昔の日記や手紙を読み返してみるとか、記憶を呼び覚ましたり発想を思いついたりするために「脳を刺激する」ところから始めるとよいと思う。

 親しい他人にざっくばらんに自分史を「話す」というのは、他人の存在そのものが刺激になってより効果的なところがある。
 とくに孫とかは、話す方も何ら気構えることなく気楽に話せるだろう。そのようにして自分史を「話す」のであれば、何時間話をしても苦にならない、どころか楽しくて仕方がない高齢者は多いはずである。そういう意味では、例えば孫や子どもに自分史を話して、それを録音したりビデオに撮ったりして、それを後で再生しながら自分史を書いてみるのもよいかもしれない。
 そしてそのことじたいが、孫や子どもとのコミュニケーションを深めることにもなるだろう。その場合、自分史はそうしたコミュニケーションの記録という意味ももつことになるだろう。

 しかしながら先に述べたように、単純に音声や映像をそのまま再現したりテキスト化したりしたものは、たんなる「データ」であって「コミュニケーション」とは言えない。すなわち、それに「書く(作る)」という送り手の意図的な行為が加わらなければ本当に「伝えたいこと」「伝えるべきこと」は伝わらない。つまり、最後の仕上げは「書く(作る)」ことなのである。
 したがってこうした意味において、自分史は、やはり「書く(作る)」べきものなのである。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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