赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を述べるタモリさん

赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を述べるタモリさん(出所:朝日新聞)

仏教葬式の弔辞で「天国で見守って」と僧侶はぎくりとする

 弔辞を読む人というのは、故人の昔からの友人、知人、会社の同僚や上司といったところが一般的である。
 マニュアル本を急いで読んで急ごしらえで作られた弔辞が読まれる葬儀はけっこう多い。最近では、無味乾燥な弔辞よりましということで、孫なんかに「おじいちゃんを送る言葉」を読ませる“掟破り”が増えているんだとか。
 かえってしみじみしていい雰囲気になると好評らしい。「天国で見守っていてください」といって、僧侶をぎくりとさせるのはご愛嬌らしい(「天国」は厳密にいうとキリスト教の概念)。
 今、親族だけでこぢんまりと葬儀を行なう密葬形式や直葬が増えているのも、こうした形だけの弔辞を読んでもらってもしょうがない、って意識があるからかもしれないよね。
 人生のクライマックスで、こんな事態に陥らないためにも、弔辞を読む人の人選は非常に大事なことだと思う。

 

 有名人の葬儀では、「弔辞」が話題になることが多い。そのなかには、後世に残る有名な台詞となるものもある。近年では、赤塚不二夫さんの葬儀でのタモリさんの弔辞の締め括りのひとこと「私も、あなたの数多くの作品の一つです」が有名である。
 その一方で、庶民の葬儀は近年「簡素化」が進んできており、それに伴い弔辞のあり方も変わってきているようだ。すなわち紹介記事にあるように、孫に「おじいちゃんを送る言葉」を読ませるというような、いわば普段着の弔辞も増えてきているようだ。

 一般論として言えば、社会的地位の高い人の葬儀での弔辞は故人の偉業や権勢をことさら称えるものになりがちである。
 ただし、キリスト教は本来、葬儀の場においても称えられるべきは神であり、神の前では故人も含めてみな等しく平等である。故人は神の御許に赴き祝福されたのであり、魂はすでに棺(遺体)のなかにはいない。したがって、弔辞は棺に向かってではなく、家族や参列者に向かって読まれ、その内容も家族への慰めの言葉や故人の追憶の言葉が主なものとなる。

 仏教では宗派によって微妙に異なるが、日本ではおおむね故人は成仏して極楽浄土に行くとみなされているので、魂はやはり棺のなかにはいないはずである。ただし、弔辞は棺(遺体)に向かって故人の魂に呼びかける内容になるのが一般的であり、そこには日本古来の死生観、「魂感」が反映されているように思う。
 すなわち、欧米のキリスト教文化では故人と生者のあいだは死によっていわば神という楔が打ち込まれて魂の直接的なつながりが絶たれるのに対して、日本の文化では故人は生者の呼びかけにまだ応えうる存在として、死によってもなお魂の直接的なつながりがまだ維持されているという意識があるのではないだろうか。

 そうすると、今後葬儀の簡素化が進み儀礼的要素が排除されていくなかで、死や葬式は日常生活のありきたりのシーンとしてそこにとけ込んでいくかもしれない。そうすると、弔辞は故人との「日常会話」が心のなかで普段通りのに続いていくことの確認という意味をよりいっそう帯びていくかもしれない。

LINEで送る
Pocket

The following two tabs change content below.
『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)