釈迦涅槃図

釈迦涅槃図(大田原市・法輪寺所蔵)

お釈迦さまは「終活」の達人だった

 最近、「終活」という言葉をよく耳にするようになりました。人生の最期をきちんと考えることは、より良く生きるための手助けとなると考えている人も増えています。実はお釈迦さまは終活の大先輩。ご自身の死を正しく自覚されると、葬儀や供養の仕方、今後の修行のあり方などを事細かに弟子たちに残されました。
 さて、終活ではお墓やお葬式の仕方、遺産の分配など、物理的・金銭的なことだけではなく、周りの人々との関わりにも、眼を向ける必要がありそうです。
 どんなに頑張ってみても、人生はたかだか100年程度。人類の歴史の中でもほんの一瞬にしか過ぎないこの自分という存在の、その生きた証しと価値をどう意味づけるのか。  お釈迦様の教えが2500年にもわたって脈々と受け継がれてきたのは、その教えや生き方が多くの人々を支え、救ってきたからなのだろうと思います。
 自分の行ないや言葉や思いは、誰かの手助けになっているのか。「あの人がいてくれて良かった」と、誰かに思ってもらえる自分であるのか――。自身の人生最期の瞬間をイメージする時、自ずと生活や意識が変わってくるはずです。
 「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」~スティーブ・ジョブズ

  

 2月15日は釈迦の命日(入滅)である。
 上で紹介した記事では、釈迦は「終活の大先輩」である、としている。というのも、釈迦は「ご自身の死を正しく自覚されると、葬儀や供養の仕方、今後の修行のあり方など」をきちんと伝え残したからである。
 ただし、釈迦の「終活」のもっとも中心にはその「教え」があり、それは「多くの人々を支え、救ってきた」からこそ2500年にもわたって伝え残されている、としている。そしてこうした釈迦の「終活」を踏まえて、「どんなに頑張ってみても、人生はたかだか100年程度。人類の歴史の中でもほんの一瞬にしか過ぎないこの自分という存在の、その生きた証しと価値をどう意味づけるのか」という観点から、「自分の行ないや言葉や思いは、誰かの手助けになっているのか」といことを自らの終活のさいに問うべきである、と指摘している。

 以上のことは、まったく的を得た重要な指摘だと思う。わたしもすでに前回、前々回の記事で「相続」をめぐる問題を取り上げたさいに、「なにが遺族の人生にとってもっともよい「遺産」「相続」となりうるか、ということは、ほんとうは法律や慣習や世間体に委ねてしまうのではなく、最大級に真剣に考えるべき」であると述べた。今回これについて、あらためて考えてみたい。

 「遺産」の典型としては、お金(預貯金や株など)や不動産(土地や自宅など)などの「経済資産」がある。
 たしかに前世紀までは、これらの資産は「農業資本」や「工業資本」として、経済発展が続く限りは子どもや孫の世代へと何代にもわたって生活を保障する重要な資産のように思われた。その意味では、それはたしかに「遺産」として重要な意味と価値があった。
 しかし前世紀末から市場経済が高度に発達し経済活動が全体として「投機的」になると、必ずしも中長期的に安定した資産とはいえなくなった。子どもや孫の世代、すなわち10年後、50年後、100年後にそれがどのような価値をもっているのかまったく定かではないのである。株にしろ土地にしろ、多額の遺産が手に入ったからと安心していると突如として価値が暴落することは大いにありうる。つまり、中長期的な観点からみると、それは「遺産」としての意味と価値を減じているのである。
 ちなみに最近は遺産相続をめぐる紛争やトラブルが増えているが、それは死亡者の絶対数が増えているとか、遺産相続に関する法規定が時代遅れになってきたということもあるだろうが、経済情勢の悪化で「少しでも家計の足しにしたい」という切実ではあるがきわめて短視眼的な動機によると思われる。

 それに対して、「遺言」―ここでは遺言として法律上効力のある遺産や相続に関する意思を表記したものではなく、家族や知人などにココロの思いなどを伝えるメッセージを意味している―は、一般の人の場合、「経済的価値」は最初からほとんどない。つまり、文芸作品など商品として制作される場合などを除いて(経済的な意味で)「(経済的)費用」はほとんどないし、またその代わりに「利益」もほとんどない。
 したがって、お金や不動産などのように「生活が楽になる」「生計の支えになる」というような現実的かつ直接的な効用はほとんどない。しかし最初からないので、現金や貯金のようにどんどん減ってやがて無くなるとか、株や土地のように価値が経済情勢によって大きく変動するということもない。
 ただし、「遺言」には直接的および短期的な経済的価値はないかもしれないが、間接的または中長期的な「心的価値」はありうる。

 たしかに、その「心的価値」はすぐには表れないかもしれない。しかし、人生経験の重みと他者への想いが込められた”タマシイのある言葉”、すなわち「コトダマ」であるならば、それは相手のココロに響き、その奥底にしっかりと残るだろう。そしてそれはもしかしたら、その人の人生上の危機を救ったり、命を助けたりすることだってあるかもしれない。
 そうだとするとそれは結果として、その人にとってカネには代え難い、計り知れない「価値」―すなわちいわば”ハイ・リターン”―をもったことになる。
 ときには、個人レベルではなく「人類レベル」で(その善し悪しはともかく)「価値」をもつ「コトダマ」もある。いうまでもなく、それは釈迦の言葉であり、イエスの言葉であり、ムハンマドの言葉である。(ただし、本サイトでいう「コトダマ」となんらかの特定の宗教とは一切関係はない。)

 どのみち、「言葉」を伝え残すことには手間も費用もほとんどかからない。ある意味では誰でも自分の「人生の資産価値」をもっと有効に活用できる「資産運用」だと思うので、これからもっと多くの人に活用してもらいたいものである。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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