『無縁社会』(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)

『無縁社会』(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)

「孤独死」とは呼ばないで、という投書

 昨日の朝日新聞投書欄に、表題の投書が載っていた。投書者は秋田市で民生児童委員として受け持ち地区の高齢者世帯を巡回している主婦ということだ。それによると、一人暮らしの高齢者は、具体的に死をイメージし、「ピンピンコロリ」を目指したり「エンディングノート」を書いたりしている人も少なくないという。
 ただ、彼らは「孤独死って言い方にはとても抵抗がある」と言う。「孤独死」という言葉は「とても寂しくて可哀相な見捨てられた死」というイメージが強いからだ。と投書は続いている。そして「自然死」とか「平穏死」などという柔らかい表現に変えてもらいたいと提起していた。
 おそらく町内の見回りをしている人としての実感からの提案だろう。この人も、ある日顔なじみの老人一人世帯を訪ねて応答がなかったとき、それを事件として通報し、警察や救急隊を動員する騒ぎにするのが最善とは考えられないのではなかろうか。そうしなければ第一発見者として責任を問われるかもしれないなどと考えるのも、気の重いことだろう。

 

 「孤独死」や「無縁社会」という言葉を目にするときいつも思うのは、「孤独」や「無縁」を単純に「悪いこと」「困ったこと」と決めつけて、それによって本当に「悪いこと」「困ったこと」は何かを考えることをやめてしまうことの問題である。

 そもそも、「孤独」や「無縁」の状態にある当人は自らの状態をどう考えているのか、ということを抜きにして周囲が勝手にレッテルを貼るのは大変失礼な話だと思う。つまりそこには、極めて不本意に「孤独」の状態にある人もいれば、逆に極めて本意の人もいるだろう。後者の場合は、仮に誰にも知られず死んだとしても「孤独死」というよりは「孤高死」とでもいうべき死に方であろう。

 ただし問題は、「孤独」の状態に関してそれが本意なのか不本意なのか微妙な人が多い、ということである。
 「孤独」な状態とは、簡単に言えば、人間関係が”希薄な”状態にあることである。ただ、現代人ないし都会人の多くは、人間関係が”希薄な”状態にあることを望んでいる。逆に言えば、かつての農村社会における血縁、地縁を中心とした”濃密な”人間関係は嫌っている。都会で生活することは、そうした田舎の”濃密な”人間関係から自由になる(解放される)ことを意味している。

 しかしここで、もう少し突っ込んで考えてみる必要がある。
 一口に”濃密な”人間関係と言っても、権力や利害で結びついているような”支配-服従”関係と、愛情や友情で結びついているような”きずな(絆)”関係とがありうる。現代人が逃れようとしたのは”支配-服従”関係になりがちな田舎の”濃密な”人間関係であり、その一方で純粋な”きずな(絆)”関係としての”濃密な”人間関係は強く欲している。そして、戦後日本において田舎を離れて都会で暮らしはじめた多くの人が純粋な”きずな”関係として築こうとしたのが「家族(核家族)」であった。
 ところが、「家族」が本当に純粋な”きずな”関係かというと必ずしもそうではなく、権力や利害が深く複雑に絡んだドロドロの”支配-服従”関係になりうることは、昼のテレビドラマなども周知の通りである。
 こうしてしだいに「家族」からも離れて、”希薄な”人間関係のなかでのみ生活する人、つまりある意味でより徹底して自由で個人主義的なライフスタイルを送る人が増えてきたのである。ただし、そうした人たちも、”きずな”関係そのものを欲していないわけではないだろう。すなわち、そのなかには、そうした”きずな”関係の構築を”あきらめた”人たちも少なくないだろう。ただ、だからといって、”きずな”の名のもとに”支配-服従”の関係に引きずり込まれるのもまっぴらごめんだろう。

   したがって、そうした人たちに外側から勝手に「孤独」というレッテルを貼って「孤独死」の恐怖を煽り、「無縁社会」に陥らないために「”きずな”の再構築」「地域コミュニティの再活性化」を声高に唱えるのは、その”空々しさ”自体がかえって「孤独」感を募らせることにあまりにもナイーブな絵空事である。
 さらにいえば、一見したところ「孤独」とは無縁で”暖かい”人間関係に恵まれているように見える人でも、そのじつ権力や利害で結びついた”エセきずな”関係しかない人もじっさいは少なくないだろう。つまりそういう人たちは、たんに権力や金があるから表面的に”暖かい”人間関係が周囲にあるだけであって、そういうポジションにいる人から「”きずな”の再構築」を上から目線で言われても、「それよりカネをくれ」という応答しかできないだろう。

 わたしは、いざというときに相手のために自分が大きな「損失」を被ることをいとわないような関係のみが”きずな”に値し、逆にそれ以外の関係はすべて”希薄な”関係である、とりわけ”きずな”を装う”希薄な”関係は(その自覚の有無にかかわらず)欺瞞的ないし詐欺的な関係である、と思う。だから、ナイーブに「”きずな”の再構築」「地域コミュニティの再活性化」を唱えることは、その意図にかかわらず結果として欺瞞的ないし詐欺的な関係をはびこらせると思う。
 しかしまさにそれだからこそ、わたしは、現代社会において絵空事や綺麗事ではない「”きずな”の再構築」はいかにして可能か、ということを真剣に考えるべきだと思う。そしてその一つのアイデアが「コトダマの里」である。もちろん、それ以外にもありうるだろう。そうした、”真剣に物事を考えた”アイデアが今後たくさん出てくることを祈るばかりである。

LINEで送る
Pocket

The following two tabs change content below.
『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)