東京タワーの足元の心光院で営まれた金子哲雄氏の葬儀(出所:日刊スポーツ)

東京タワーの足元の心光院で営まれた金子哲雄氏の葬儀(出所:日刊スポーツ)

金子哲雄さん 墓地に数百万円は腑に落ちないと納骨堂を選択

 「私は自分の『最期』を、最後の仕事としてプロデュースしようとしていた」
 誰にも訪れる最期の時。だが、遺された者は悲しみに浸る余裕もなく、葬儀や墓の問題、遺産整理などに追われることも多い。その点、10月2日に41歳の若さで亡くなった金子哲雄さんの「最期」は見事というほかはない。
 病いと闘いながら、流通ジャーナリストとして自分の葬儀を自分でプロデュースし、会葬礼状までも自分でしたためていた金子さん。彼が死の直前まで最後の力を振り絞って書き上げた『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館刊)には、我々も学ぶべき「命の始末」のつけ方がつまっている。
 ・・・(中略)・・・
 金子さんは自分の遺骨をどこに納めるかも生前に決めている。
「墓地に数百万円かけるのは、腑に落ちない。残された人間が手厚く葬るならまだしも、生前にバカ高い、自分のための墓を用意するのは避けたかった」と、金子さんは手記に綴っている。
 子供もいないことから、後々妻とふたり一緒に眠ることができ、永代供養をしてくれる納骨堂を検討。そして「終の住処は都会の中心にしたかった」という自らの希望から、最終的に、東京タワーのすぐ足下にある心光院の納骨堂に決めた。
 お参りの際の目印としてわかりやすく、また「東京タワーを見るたびに思い出してくれたらうれしい」という想いを込めての選択が金子さんらしい。

 「エンディング」について考える、というのは、なにも高齢者に限られた話ではない。現在では、年齢にかかわらず、いわば”常備”しておく必要も出てきているように思われる。

 本誌で折にふれ論じているように、その背景には「死の個人化」という社会的・文化的趨勢がある。すなわち、個人の死のあり方は社会的風習、社会的規範、社会関係などの「社会的縛り」から切り離され、個人の「自己決定」、すなわち個人の嗜好や価値観に基づく自由な意思決定に委ねられるようになってきているのである。
 かつては、死のあり方は、社会的、文化的、宗教的伝統によって「社会的に決定」されていたので、個人がそれについて思案する必要はなかった。実際には、葬儀や墓などに関しては、「社会的、文化的、宗教的伝統」の名のもとに葬儀業者や寺によって”すでに決められていた”。したがって、葬儀や墓の費用も”すでに決まっていた”。

 しかし「死の個人化」によって、個人の死のあり方が”すでに決めらた”仕方で扱われる必要がなくなってきている。そしてまた、この「死の個人化」の趨勢に伴い、弔いの「カタチ」ではなく「ココロ」を重視するようになってきている。そしてそれは、弔いの儀礼的形式を整えるために高額な費用をかける必要はない、という考えにつながる。
 したがって、金子氏のように、「墓地に数百万円かけるのは、腑に落ちない。残された人間が手厚く葬るならまだしも、生前にバカ高い、自分のための墓を用意するのは避けたかった」と考える人は増えてきている。また、金子氏のように子どもがいない夫婦の場合は、「後々妻とふたり一緒に眠ることができ、永代供養をしてくれる納骨堂」を選ぶ人も今後増えてくるだろう。

 しかしながら、「死の個人化」によって、死のあり方が”すでに決めらた”仕方で扱われる必要がなくなってきている、ということは、逆に言えば、”自分で決めなければならない”ということもである。
 ただし当たり前だが、死のあり方は、自分が死んでしまった後に決めることはできない。ゆえに、それについてあらかじめ自分で決めておかないと、死んだ後に”すでに決めらた”仕方で粛々と処理されてしまうだろう。そのさい、残された遺族は、葬儀や墓に関する伝統的慣行に疑問を持っていたとしても、葬儀業者、住職、親戚、近隣住民、職場関係者など諸々の関係者のプレッシャーのもとで”すでに決めらた”仕方で行わざるをえなくなることが十分に考えられる。

 したがって、こうした意味からも、自らの死のあり方については生前に明確に意思表示しておく必要がある。
 これについては、「臓器移植」の例を引き合いに出すことができるだろう。現在では、健康保険証や運転免許証などともに「臓器提供意思表示カード」を所持していることが一般化している。これは、死のあり方を個人の自己決定に委ねるという意味で、やはり「死の個人化」という社会的趨勢の一つの表れでもある。
 考えてみれば、臓器提供に関して「意思表示カード」があるならば、葬儀や墓に関して「意思表示カード」があってもおかしくはない。そしてそれは、実質的には「エンディング・ノート」がその役割を果たすわけである。

 このように考えると、エンディング・ノートは一種の”社会的マナー”に近いものといえるかもしれない。「家族や周囲に迷惑をかけたくない」という動機でエンディング・ノートを用意しておこうと思い立つ人が多いが、エンディング・ノートがそのような性格を帯びてきていることの反映といえるかもしれない。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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