平成24年度自殺予防週間ポスター

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県文書「自殺」→「自死」へ 来年度から(島根)

 県は30日、自殺防止の施策をまとめた県の「自殺対策総合計画」の名称について、「自殺」という言葉の使用をやめ、来年度から「自死対策総合計画」に改める方針を示した。中身も「自死」の言葉を使う。遺族の感情に配慮したといい、県の文書では今後、可能な限り「自死」に統一する。
 「自殺」という言葉を巡っては、「殺す」という文言が含まれ、罪人のようなイメージがあることから、県内の遺族らが「自死」とするよう県に求めていた。新たな計画は13年度から5年間。市民から意見を募るパブリックコメントなどを経て、策定する。
 自死遺族自助グループ「しまね分かち合いの会・虹」代表で協議会メンバーの桑原正好さん(62)は「訴えが実りうれしい。自殺という言葉で、多くの遺族が傷ついてきた。同様の動きが全国に広まってほしい」と話していた。

 さしあたり、「自殺」か「自死」かは言葉上の問題で実態がそれで変わるわけではない。とはいえ、遺族にとっては言葉の持つ感情的意味合いは大きいかもしれない。そういう点では、表現を変えてもらいたいという遺族の訴えは理解できる。

 ただ、ここで少し別の角度から考えてみたい。
 「自殺」も「自死」も一応自動詞(私は~する)として作用するが、「自殺」の方は暗に他動詞的に作用している(私は私を殺す)。
 しかも、一般に意図的に「私を殺す」のであるから、「殺意」があることになる。さらにそうすと、一般的には、「私」に対する怒りや憎しみの感情、あるいは処罰感情があって「殺す」ことになる。

 とはいえ、対象が「私」ではあってもそれは形式上「殺人」であり、殺す側である「私」は(もうこの世に存在しないとはいえ)大なり小なり社会的に「道徳的責任」を問われることにもなる。また、一般の殺人事件として捉えるならば、「私」がそのように「私」に対する殺意を持つにいたった動機や背景が否が応でも問題となり、それを問題にする過程で周囲の関係者も責任を問われたり、心に大きな傷を負ったりもする。
 それに対して、「自死」には言葉上は他動詞的ニュアンスは希薄である。さらに言えば、言葉上は、「自然に死んだ」「自ずと死んだ」というような、あたかも「死ぬべくして死んだ」かのような印象も惹起させる。

 たしかにこれは、本人にとっても周囲にとっても「心の負担」が軽くなるような表現である。ということは、結果として、「自殺」の敷居が低くなる可能性がある。
 じっさいのところ、例えば必ずしも法的、社会通念的に許容されない形で「尊厳死」を選んだ場合など、社会や他者に恨みがあるわけではなく何らかの理念や信条のもとで明確な意図をもって自ら死ぬ場合は「自死」と呼ばれた方が、本人にとっても遺族にとっても望ましい呼ばれ方かもしれない。他方で逆に、社会や他者に強い怒りや恨みを抱えて死ぬ場合は「自死」という”軽い”呼ばれ方は不本意かもしれない。

 いずれにしても、結局のところ、「自殺」であろうと「自死」であろうと、本人がもはや存在しない世間での勝手な呼び方には違いないだろう。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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