アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代
アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代
著者:児玉 真美
販売元:生活書院
(2011-10)
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安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること 児玉真美

 尊厳死法制化をめぐる議論で、尊厳死を推進しようとする人たちの中から「既に安楽死や自殺幇助を合法化した国では、なんらおぞましいことは起こっていない」という発言が出ることがある。私はそうした発言に遭遇するたびに、そこでつまづき、フリーズしたまま、その先の議論についていくことができなくなってしまう。
 「おぞましいこと」は本当に起こっていないか? それとも現実に何が起こっているかを、この人は知らないのか? しかし、これだけ尊厳死法制化に積極的に関わってきたこの人が、本当に知らないということがあるだろうか? それとも現実に起こっていることを十分に承知していながら、なおかつそれらをこの人は「おぞましい」とは思わない、ということなのだろうか? ……目の前の議論から脱落し、そこに立ち尽くしたまま、私の頭はこだわり続けてしまう。

 もちろん、「おぞましいこと」は実際に起きている。児玉氏が追いかけている「アシュリー事件」もその一つだ。
 アシュリー事件は「おぞましいこと」の一つの象徴的事例であるが、児玉氏はさらにオランダの「宅配安楽死」やベルギーの「安楽死後臓器提供」など、「いつのまに世界はこんなにコワい場所になっていたのだ」と呆然するような事例をあげている。
 そのうえで、「『アシュリー療法』」やギルダーデール事件が許容されてしまう国々が向かっているのは、決して誰も幸せになることのない社会のように思えてならない」と述べ、「尊厳死の法制化を拙速に決める前に、本当に「安楽死や自殺幇助を合法化した国ではおぞましいことは起こっていない」のかどうか、これらの国々で起こっている出来事についてきちんと知り、「起動安楽死チーム」や「安楽死後臓器提供」が既に現実となっている国々が一体どこへ向かおうとしているのか、しっかりと見極めるべきだろう」と論じている。

 児玉氏自身、重度障害の娘さんの介助を25年以上続けていて、自らの経験をベースにしてこうした問題提起をしている。その言葉は、わたしなどが抱えきれるはずもないほど重い。そしてまた、その主張そのものにも共感する。
 しかしあえて、その共感を口にする前に考えておきたいこともある。

 まず、ある意味で自明のことではあるが、こうしたさしあたり医療倫理や生命倫理の問題として扱われる問題の土台には常に「経済問題」があって、それを抜きにして議論しても現実的(ないし政治的)にはどうにもならない。つまり、ありていに言えば、「ケア」には「コスト(カネ)」がかかる。それをどうまかなうのか、という話である。(「ケア」は「コスト」がかかるだけではなく「ベネフィット」もある、という話は心情的には理解できるが経済的議論には無力である。)
 現実問題として、世界経済にはそれをまかなう余裕がどんどんなくなってきている。要するに、「無い袖は振れない」のである。「自己決定」とかと言っても、そうした言葉面の裏には「自分で決める(何とかする)しかない」という経済的現実への暗黙の了解(諦観)がある。

 しかし問題なのは、こうした現実はあくまでも経済的な現実である。つまり、ケアにコスト(カネ)がかかるのはたしかであり、かつコスト(カネ)をかける余裕がなくなってきているのは事実だが、にもかかわらずそれをどの程度までかけるかは本質的には経済問題ではなくその「価値観や文化」の問題である。そして本来、こうした価値観や文化が経済的現実よりも「上位」にあって、経済的現実はそれによってコントロールされるべきもの、それゆえに変えられるべきものである。
 ところが現代は、(ある意味ではマルクスが看破したとおりに)経済的現実が価値観や文化を支配している。そして、通俗的な「死の自己決定論」は、あたかも確固たる主義主張のようにも見えるが、その正体は、誰もコストを払えない、あるいは払おうとしない、という経済的現実を正当化するイデオロギー(古臭い表現で恐縮だが)に過ぎない。

 わたしは、そうしたくだらないイデオロギーに”乗せられたまま”死を迎えるのは、それこそあまりにくだらない、死んでも死に切れないほどくだらないことだと思う。したがって、そうしたイデオロギーの”今風な”表現の一つとおぼしき「できるだけ家族に迷惑をかけないようにエンディングしたい」などという流行のトレンドに棹差すことだけはしたくない。月並みな言い方かもしれないが、多くの人に、もっと自分の死を(そして生を)大切に扱ってもらいたいのである。

 児島氏は「くぐりぬける力」について書いている。個人的にとても心に響いた〈コトダマ〉なので書きとめておきたい。

障害に限らず、人は誰でも人生の途上で不運としか呼びようのないことと人生で出会ってしまう。それでも多くの人は、その不運によって突き落とされる絶望の中から、やがてくぐりぬけて、何とか生きようと思えるところに這い出してくるのではないか。もう死んでしまいそうな絶望的なところを、命からがらやっとの思いで「くぐりぬけ」た時、人はくぐりぬける必要が生じる前よりも深いところにある何かに触れるのではないか、それまで「これが自分だ」と思っていた自分よりも、一つ深いところにいた自分と出会えるのではないか、という気がする。

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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