大津いじめ 県警が中学・市教委を捜索

 大津市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる問題で、滋賀県警は11日夜、男子生徒への暴行容疑の関連先として大津市教委と同中学校を捜索した。校長や市教委の担当者らからも任意で事情聴取した。県警は、いじめの実態解明を進めるとともに、市教委や学校の対応に問題がなかったかについても調べる。

 県警幹部によると、捜索の容疑は、複数の同級生が昨年9月29日、体育施設で男子生徒の手足を鉢巻きで縛り、口を粘着テープで塞いだ疑い。男子生徒はその12日後の10月11日、マンションから飛び降り死亡した。
 県警は、いじめと自殺との因果関係など事件の全容を解明するには、全校アンケートなどの資料の分析が必要と判断。県警は非公開資料があるとみて強制捜査に乗り出した。

 大津市のいじめ自殺の問題が大きな騒動になっている。

 ここまで大きな騒動になっている主たる原因は、学校や市教委が事実を隠蔽しようとしたかのような対応をしたことにある。マスコミでは連日加害者、学校、市教委が槍玉に挙げられ、ネットでは警察もグルであるかのような書き込みがなされるにいたって警察も強制捜査に乗り出さざるをえなくなった、というのが実情であろう。
 しかしここでは、今一度問題の出発点に立ち返って考えてみたい。すなわち、なぜいじめの被害者である男子生徒の自殺を防ぐことができなかったのか、ということである。
 いじめが悪いことであり、いじめが起こらないようにすべきなのは言うまでもないことだ。問題は、「いじめの発生」と「被害者の自殺」という現象のあいだは、本来はかなり長い距離があるのであって、そこには「被害者の自殺」という最悪の事態が帰結しないようにするための段階や手立ては相当あるはずなのである。にもかかわらず、そうした事態になってしまうのはなぜなのか。

その言葉に〈タマシイ〉はあるのか

 わたしはこれは、親以外の周囲の人間が誰も本気になって助けようとはしていないことにあることによると思う。つまり、結局は「他人事」なのである。

 かりに周囲に”良識ある”教師や友人がいたとしても、「嫌なことははっきり拒否しろ」「悪い仲間とは付き合わないほうがよい」「親や先生と相談したら」などの”一般論”をアドバイスするのがせいぜいのところである。そうした”一般論”は、とどのつまり、「自分でなんとかしろ」「こっちには迷惑かけないでね」という”アドバイス”と代わりはないのである。要は、誰も”迷惑”(犠牲)を甘受してまで助けようとはしないのだ。

 そしてそのことは、当事者によって敏感に察知される。当事者を絶望に追いやるのは、むしろこうした類の”親切な言葉”なのである。
 そうした言葉は、「いじめ」というそれ自体は”小さな出来事”を一挙に「人生(人間社会)への絶望」へと導く。友人、先生、学校、行政、警察、”助けてもらいたい”人間や組織が、ことごとくそんな言葉をいうやつらばかりであるときの少年の絶望を少しは想像できないのか。

 〈タマシイ〉のない言葉ほど”絶望的”なものはない。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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