「尊厳死法案」をテーマにした公開討論会(東京弁護士会主催)

「尊厳死法案」をテーマにした公開討論会(東京弁護士会主催)

尊厳死法案、「終末期」の定義めぐり激論

 超党派の国会議員連盟が検討している「尊厳死法案」をテーマにした公開討論会(東京弁護士会主催)が3日、東京都内で開かれた。

 同法案では、「行い得る全ての適切な医療上の措置を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態にある期間」を終末期と定めており、「医療上の措置」については、栄養補給など生命維持のための行為も対象としている。

 終末期の定義について日本尊厳死協会の長尾副理事長は、「医学的に定義することは困難だが、末期はある。家族と医師との信頼関係が前提となっている」と指摘。医学会のガイドラインは周知されないとして、あくまで法制化が望ましいとの考えを示した。

 また、医療法人社団悠翔会の佐々木理事長は、「末期がいつかは、医師と患者さん、ご家族が話し合って決める問題だと思う」とした上で、「法律を作ったとしても、患者さんとご家族と医師の三者のインフォームド・コンセントがきちんとできなければ、尊厳死は絶対に実現しない」と述べ、法制化に反対の立場を示した。

「尊厳死」の問題に「解答」はない

 「尊厳死」や「安楽死」の問題は、生命倫理の諸問題の中でも優れて論争的な問題である。しかしそれと同時に、およそすべての人が我が身のこととして直面する現実的な問題でもある。つまり誰もがそれについて多かれ少なかれ自分なりの「主張」、自分なりの意見や判断をもたざるえない問題である。

 こうした問題に関して、“成熟した”民主主義社会の中で、社会のメンバーが何らかの「規範的(倫理的)合意」に達することはほぼありえない、と思われる。つまり簡単に言って、みんなが「正しい」と納得するような「解答」をえることはほぼありえないのである。

 ただし「民主主義」と言っても「議会制」の場合は「多数決」の論理があるので、議会政治の中で政治的駆け引きを通じて何らかの「主張」が「多数決」を得ることはありうる。そして「多数決」を得られれば「法制化」される。国民は、かりにその「法律」が自分の「主張」と正反対であってもいったん「法律」として成立したならばそれに従わなければならない。それが「議会制民主主義」である。

 しかしここで注意する必要があるのは、「多数決」によって成立した「法律」が必ずしも「国民の多数」に支持されているわけではない、ということである。もちろん「憲法改正」のように国民の多数に支持されているかどうかを直接的に問う必要がある場合もあるが、ほとんどの場合は「議員の多数」でしかない。

 民主主義の“成熟”とは、この「議員の多数」が「国民の多数」に限りなく近づくことを目指すことであると思うが、現在の日本の“成熟度”がどの程度なのかは定かでない。議会制民主主義とは名ばかりの扇動政治や衆愚政治は遠い昔のことになった、と誰もが断言できるほどではないことはたしかであろう。

 ただ現代日本は政治的には議会制民主主義である一方で、経済的には資本主義である。いわゆる「左派」の人たちにとってはこっちの方が気がかりなことで、簡単に言えば“カネの力(経済力)”で「多数決」が作られる危険に敏感である。ただし“カネの力”があるにしても、かつての全共闘時代とは異なり、現代ではもう少し高度な世論形成の仕掛けがありそうで、インターネットはその“主戦場”になりつつあると思われる。

 

「法制化」の“怪しい背後”

 こうしたことを踏まえて言えば、どうみても社会的コンセンサスが得られそうにない問題に関して「法制化」の動きがあると―しかもそれが「着々」「粛々」とした動きだと―、眉に唾を付けたくなる、あるいはその「背景」や「背後」の方にむしろ関心が向かう。

 ただ断っておくと、わたし自身は「背景」や「背後」は当然あるだろうし、そのこと自体が問題があるとは思わない。わたしが問題だと思うのは、「背景」や「背後」を“隠蔽”したり“偽装”したりすること、つまり陰でコソコソすることである。

 例えば、「尊厳死」の法制化の動きの背後には、訴訟や裁判を念頭に置いた医療従事者の「責任範囲の明確化」(つまり刑事・民事責任に関する「免責」)の意向がかなり「作用」しているだろう。実際、「尊厳死」の観念が曖昧なままで一番困るのは医者なのである。

 そしてこのことは社会の側も十分了解するべきである。自分たちで答えを出せない「倫理的な正しさ」を場当たり的に医者に求めても、医者の方でも困るのは当然である。医者は医療技術の専門家であって倫理学者でも道徳家でもない。

 ただ、そうであるならばまさにその通りに主張すればよい、とわたしは思う。つまり、「わたしたちはいちいち裁判をしているヒマはないので明確に法律で定めてもらいたい」ということならその通りに主張すべきである。それを何らかの「倫理的な正しさ」に“偽装”しようとすると、とたんに「背後」が“怪しい空気”に包まれてしまう

 「尊厳死」のような問題で“過剰に”「倫理的な正しさ」を追求しようとすると、逆にこうした“偽装”を招きやすい。人間社会に「倫理」は不可欠であるが、それと同時に現実的な「利害」に対する配慮も重要である。わたしはそれらすべてがオープンに取り上げられ、真面目に議論されることが決定的に重要であると思う。もちろんオープンにされることによって誹謗中傷やバカげた言説にさらされることになるだろうが、そうしたデメリットよりメリットの方が大きい、と思う。

 その意味では、「尊厳死」をめぐる現状の動きはまだ“怪しい”ところがあると言えるだろう。

 

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『コトダマ新聞』の主筆(代表)です。時流に流されずに死生観をめぐる文化論にまで掘り下げて考察したいと思います。

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